塾長日記

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川崎市登戸事件に思う
2019/05/29

 つい2日前、北海道佐呂間町では最高気温が39度を超えた。オホーツク海に面したこの町には学生時代に深夜の鈍行で一度、北海道に住むようになってからはオートバイで一度お邪魔したことがあった。ホタテがとてもおいしかった記憶がある。道東のこの町が40度に迫る気温を、しかも5月に記憶するとは夢にも思わなかった。

 何とも残虐、凄惨な事件が起こったものだ。わずか十数秒の間に19名が刃物で刺され,うち二人が亡くなった。刺されたのはスクールバスを待っていた小学生がほとんどだった。さぞ怖かっただろう、さぞ痛かっただろう、目の前で一体何が起こっているかも知らずに無慈悲に刺されたショックは計り知れないものだったことだろう。

 亡くなった女児はまだ11歳だ。楽しい盛り、夢見る盛りの女の子だ。余りにも気の毒で、気の毒で、申し訳ない気持ちになってしまう。もう一人の方は外務省の第一線で働く男性だった。最初に刺されたそうだ。近くの官舎にはご家族がおありだ。家族のため、社会のためまだたくさんやりたいことがあっただろうと思う。無念だ、残念だ。本当に申し訳なく思う。事件があった社会の一員としてそう思う。

 犯人は自殺してしまった。これから事件を巡る状況が明らかになって様々な意見、感想が出るであろうが、今は「死ぬなら一人で死ね、他人を巻き込むな」という声が支配的だ。精神分析の専門家、社会学者からは、「孤独、社会への憎悪、生い立ちの不幸さ」などが指摘され、2008年の「秋葉原無差別殺傷事件」や2007年のアメリカの「バージニア工科大学銃乱射事件」などとの類似性が示された。海外メディアは、世界で最も安全な国であるはずの日本で起こったことへの驚きを伝えた。

 これからマスコミも学者たちもこぞって犯人の過去を追求するだろう。どんな環境で育ったのか、親兄弟・親戚・隣人との関係はどうだったのか、小中学生時代はどうだったのか、職場ではどうだったのか、何か過去に特別な出来事がなかったのか、などなど。そして、そのいくつかと今回の事件を結びつけようとするだろう。
 
 「人は過去とのつながりの中で生きている」という説が正しければ当然なことだと思う。これまで同種の事件が起こる度にそれは繰り返し行われてきたが、果たしてそうなのだろうか。自分はこの説には懐疑的だ。自分は「人は過去とではなく未来とのつながりの中で今を生きている」と思っているからだ。例え、過去がどうであれ、どんなに不幸で悲惨であったとしても、また、今がどんなに悲惨な状況であったとしても、それだけでこのような事件には至らない。いささかなりとも未来とのつながりを持つ時、あるいはつながりを感じていられている限り、人は他人も自分も傷つけることはないのだと思う。

 未来と自分のつながりの全てを全て絶たれた時、あるいはつながりの予感すらなくなった時に、あのような事件を起こすことで自分の全てを精算しようとするのではないだろうか。それは実は未来とのつながりをあきらめたのではなく、恐ろしいやり方で未来とのつながりを確固たるものにしようとするからなのだ。

 自分の名を、例え凶悪犯としであれ未来永劫に渡って社会に刻み込み、傷付いた子供達が、未来に渡って果てしなく心身共に後遺症に悩むことを通して、事件以前にはできなかった自分と未来を結びつけることに成功し、しかも自殺することでその結びつきが確固たるものとなり、しかも、社会からの執拗な糾弾とその後の死刑までの恐怖を回避することができると計算したのだと思う。だとしたら、この犯人にとって余りにも都合の良い、してやったりの事件であったのではないだろうか。

 だから、犯人を「悪のヒーロー」のごとく祭り上げて、連日、これでもか、これでもかとマスコミで取り上げ、犯人の過去を調べ上げ、学者を総動員して原因を探るなどは止めた方が良いと思う。それはまさしく犯人の思うつぼだからだ。悲しみのどん底にあるはずの遺族、被害者のためにもこの事件を取り上げないことだ。そして、したり顔で、「二度とこのような事件を起こさないためには、こうすべきだ、あーすべきだ。」などと聲高に語らないことだ。この社会の至る所に未来を感じ得ない状況、そういう人達が存在すること、しかも、いつか我らもその立場にいるかもしれない可能性を否定できないということを思うべきだ。例え過去が、今が幸せであろうが、そうなりえることを。

 真言宗徒である自分は人を憎んではいけないのだが、他人を殺傷することで、しかも、いささかも自分を損ねることなく自分を完結させた犯人の狡猾さ、卑怯さ、残忍さを心から憎む。

AIと教育
2019/05/21

 桜の期間が終わって3週間、函館は清々しい一番良い季節に入った。これから約2ヶ月間は気持ちの良い時が過ごせそうだ。

 2045年は大変な年になるのではと言われ始めて久しい。シンギュラリティー(技術的特異点)の到来だ。AI(人工知能)が人類の知能を上回り、世界に多大な変化が生じるだろうと言うことだ。AIを積んだ対戦ロボットがチェスの世界名人を破り、並み居る将棋の高段者、囲碁の強豪を打ち破ったことは記憶に新しい。情報通信分野は当然として家庭用電化製品、医療、さらには軍事分野でも実用化が進もうとしている。自動運転車から始まり、医療用ロボットが外科医に代わって難病の手術をし、無人戦闘機・爆撃機はもちろんロボット兵士が戦場を駆け回る光景が現実になりつつある。

 今は亡き天才物理学者ホーキング博士はシンギュラリティーは人類の悲劇だと断じた。実際、現在ある職種の半分は消滅し、人はそこから追われるだろうと言われている。AIが人間に代わって世界のご主人様になるかもしれないという声も聞こえてきた。

 他方、AIに批判的な人達、特に教育の世界では人間の優位性を声高に唱える人が多い。「AIなんかに教育なんてできない」というのが根底になるようだ。「教育は人を育てることで、機械に代わりは務まらない」と言うわけだ。確かに、まだAI化にも至っていないネット授業にも嫌悪感を持つ人は多い。

 これとは対照的に、教育分野でのAI活用を積極的に考える人も少なからず多い。AIを積んだ授業ロボットがかなりのレベルで英会話レッスンをする、数学の学習を生徒個々に組み立てるなどはもう実用化されている。夢の「翻訳こんにゃく」もかなりの程度まで進化している。数年後にはスマホに「通訳・翻訳アプリ」を入れて、言葉の壁を感じることなく世界中どこでも自由に旅することができるだろう。夢は膨らむばかりであろう。新しい技術、システムが現れた時に、ヒトは興奮し期待するか、恐れて不快感を抱くかどちらかである。

 自分はAIに賛成も反対もない。科学技術は、特にIT時代になってからはハード、ソフト共に一般大衆の賛否にかかわらず、それ自身が勝手に膨れ上がっている。「教育の花園」に入り込むな、と言ったところで土足でズカズカとやってくるのは間違いない。また、「AIなんかに教育なんてできない」と言ったところで、下手くそな先生がやるよりも生徒個々の実情に応じたプログラムを自在に作成し、活用して極めて効率的、かつ生徒の興味を損ねないように「先生ロボット」が指導してくれるはずだ。これはこれで見てみたい景色ではある。

 では、AIの時代に教育の世界にはヒトはもはや指導者ないしは教師として存在し得ないのであろうか? 自分は分からない。2045年までは生き長らえることはあり得ないからだ、と逃げて言っているかなのではない。AIというモンスターを今の知識だけでは想像だにできないからである。確かなのは、AIないしはその装置はツールであるということだ。教える自信がない、指導研究はほとんどやらない、適当にやっていても問題ないだろうという教師、指導者は間違いなく消滅するだろう。生徒が好きだ、生徒の未来のために自分は生きたいと考え、必要ならどんなツールでも、それが例えAIであっても使いこなしていこうという者だけが残る、ある意味では理想的な教育界になっているかもしれない。自分は、今もこれからもAIの行く末を見つめ続けたいと思う。

基地問題に思う
2019/03/25

 なかなか春が来ない。北大の卒業式辺りに雪が降ることが多いのだが、今年もそうだった。だが、あまりの雪の多さと寒さには閉口してしまった。本州も「花冷え」だったらしい。

 ところで、一度でも沖縄のあの青く澄んだ海を見、我が物顔に居座る米軍基地を見たならば、普天間であろうが辺野古であろうが、これ以上の基地の存続など真っ平御免と思うのではないだろうか。だが、普天間基地の移転先である辺野古では海への土砂の投入が強行されている。県民投票での”辺野古NO”の圧倒的な民意などどこにも届いてはいないかのようだ。

 確かに1972年に沖縄は施政権がアメリカから日本に返還された。通貨がドルから円に、車両の右側通行が左側通行に変わったが、基地はそのまま残った。アメリカの世界戦略、とりわけ核・軍事戦略に編み込まれれたまま沖縄は「本土復帰」を果たしたのだった。返還後、アメリカにとって沖縄の重要性はさらに増した。

 アメリカは沖縄を離しはしない。施政権が日本にあるかどうかなど一顧だにしない。日米安保条約と日米地位協定という最悪の超法規を武器に、都合の良いところに基地を作り、中国、ロシア、朝鮮半島、東南アジアに睨みを利かせ、戦地に兵力を送り出していく。無論、日本や沖縄のためなのではない。アメリカ自身のためだ。施政権を返還して一番喜んだのはアメリカだ。なぜなら、県民のことなど考える必要がなくなったからだ。基地移転など基地問題は日本政府の仕事になり、アメリカが自ら手を汚すことがなくなったからだ。アメリカは日本政府のケツをひっぱたくだけでいい。日米安保条約と日米地位協定がそれを保証している。

 沖縄の基地問題は最終的には、アメリカに何もかも従属した日本をどうするのかに行きつくだろう。現在のアベ政権はアメリカ従属を維持しているが、本質はネオファシストだけに核保有を含めた対米「自立」を志向せざるを得ないだろう。
 一方、各種選挙で敗走を続ける左翼陣営は、政府の対米従属を批判しながらも、己の対米自立政策に親中国、親ロシア、親北朝鮮のレッテル=「反日」を張られることを恐れ、おそらく何もできないだろうし、その対米自立政策自体に有効性があるわけでもない。ここに、現代日本の抱える最大の悲劇がある。

 私は最近夢想する。薩摩藩による琉球侵攻、明治政府による琉球処分=強制併合以前の琉球への回帰を。琉球独立論に与しようとは思わない。だが、日本からも中国からも自立したかつての琉球の誇りを、我々は忘れてはならない。基地を沖縄に押し付けながら、沖縄観光だけに現を抜かすのであればあまりにも情けなくはないか?
 

「新共通テスト」対策だけでは
2019/02/05

 自分の誕生日は2月12日。もう大分年齢も進み、誕生日を心待ちにすることなどなくなってしまった。そのうち誕生日そのものを忘れてしまいそうだ。

 2020年度入試改革の目玉は英語4技能検定の導入であろう。英検の受験者が増えていることから、大学入試を意識した”英語熱”が次第に高まってきているように思う。

 英語を勉強することはとても良いことだとは思う。実用英語=「使える英語」を意識することも良いことだと思う。だが、「新共通テスト」試行テストの英語問題程度のレベルでそれを達成出来るわけではない。「使える英語」とは、英語で商談する、プレゼンをする、ディベートをする、喧嘩腰の折衝をする、映画の感想・批評をするなどだ。こんなのは、必要に迫られて、職を賭けて、生活を賭けて、プライドを賭けて死ぬ気で対処しない限り出来るはずがない。にもかかわらず、腰の引いた「使える英語」が全面に押し出され、これまで国公立大学や私大入試で出題される程度の、少し硬めの英文の評論文や小説などを唾棄する傾向が見られ始めている事は論外である。

 自分は「グローバリゼーション」と言う名の「アメリカ化」には賛成できない。政治、経済、軍事、文化のすべてをアメリカのパワーの下に編み込んでいくのがアメリカ化だ。悔しいが、自分たちの社会はすでにグローバリゼーションにどっぷり浸かっている事実がある。今や、人・物・金・情報に国境はない。英語が世界言語となっているのは紛れもない事実だ。大学、会社、官庁、地域社会のどこでも英語を使えることが、そこで生きていくためには必要なことになった。

 だからといって、すぐに英検1級を目指せか、TOEICで800点超えを目指せとかではない。「新共通テスト」の英語程度はそんなに意気込まなくても十分に対策できるはずだ。「キョーイチ」以前の「知識偏重の難問奇問」入試を経験してきた我々世代ですら英語で「戦う」ことをやってこられたのだから。

 ふやけた「使える英語」の喧伝に右往左往することはない。それよりは、単語、熟語、文法、構文を習得し、抽象的な英文評論が読め、英文小説が読め、英語の記述式大学入試問題をそれなりにこなせる程度の素養を身につけるべきだと思う。それが出来れば、例え「グローバリゼーション」の環境に投げ出されても十二分に生きてやっていけると思う。

 我が第一ゼミナールは「新共通テスト」はもちろん、どんな入試制度の下でも英語で戦える生徒、だから「グローバリゼーション」でも戦える生徒をさらに育てていきたいと思う。

領土問題に寄せて
2019/01/20

 受験の季節が始まった。19日、20日のセンター試験を皮切りに、2月には私大入試が本格化し25日には国公立大学前期日程入試、3月に入って前期日程合格発表、直ちに後期日程入試と続き最終決着は3月後半。我が校の受験生諸君の健闘を切に祈る。

 領土問題は難しい。どの国だって妥協などしたくないからだ。もし領土問題に解決があるとすれば、当事国同士が解決条件で折り合うか、物騒な話だが戦争で決着するときだけだろう。

 沖縄返還は、アメリカが別に好意で返してくれたわけではない。戦後に沖縄を占領したアメリカが、沖縄全土で巻き起こる反米・反基地運動、施政権返還要求運動の高まりに対して、施政権を日本に返還する代わりに沖縄を丸ごとアメリカの核軍事戦略に編み込むことで一気に解決しようとしたものだった。だから、アメリカは未だに沖縄に居座り、アメリカの軍事行動の最前線基地となっている。普天間の代わりに辺野古に基地を、などはかつての沖縄返還で取ったアメリカの振る舞いを彷彿させるではないか。アメリカ十分な見返りなのだ。

 北方領土については、ソ連の時代から今に至るまでロシア側は一度たりとも、また一島たりとも返すなどと言ってはいない。日本政府は旧ソ連による不当な占領を叫び、四島を返せ、少なくとも歯舞、色丹島だけでも返せと言い募り、ロシアの「返すような素振り」に飛び付いて国民に期待を抱かせようとするが、ロシアは1ミリたりとも島を離そうとはしないだろう。いくら不当だと叫んだところで、戦争の結果占領した土地をおいそれと返すわけがない。それが領土問題というものだ。まさか、ロシアが「我々は不当に占拠していました。すみませんでした。島をお返しします」などという訳がない。もし返すとすれば(ほとんどあり得ない話だが)、沖縄に対するアメリカがそうであったように、ほんの少しの餌を日本に与えて、恐らくそれの何倍もの見返りを要求するだろう。現に、何も返していないのに、総理たるアベ氏は、「ウラジミール!」などと猫なで声を出し28回も会った挙げ句、3千億ものカネをみすみすロシアに提供する約束をしただけだった。ひょっとしたら、これからその何倍、何十倍もの「経済協力」を差し出すことになるかもしれない。実に馬鹿げた話だ。

 我々は、四島は我々のものだと言い続けるほかはない。戦争でも仕掛けない限り、四島返還に見合う条件を我々が飲めるまでそうすることが最善だと思う。こちらから持ち出す話ではない。我々は、日露平和条約を匂わせ、あからさまに条件を吊り上げるロシアにも、また、領土問題を政権浮揚に政治利用するアベ氏を始めとする我が国政治家どもにも付き合うなどしてはならないのだ。

3.11を風化させない
2018/09/11

 2011年3月11日、東日本大震災。死者・行方不明者は1万8,434人、建築物の全壊・半壊は40万2,699戸、避難者は40万人以上に達した。だが、この大震災による悲劇は地震・津波による被害にとどまらなかった。福島第一原子力発電所1 - 4号機がメルトダウン(炉心溶融)や建屋爆発事故などが続けて発生し、チェルノブイリ原発事故と同じレベル7に分類される重大事故を引き起こした。繰り返された「原発安全神話」など木っ端微塵に吹き飛んだ。

 双葉町元町長・井戸川克隆氏によれば、津波の少し前、3月3日、3月3日に地震・津波のあることを日本政府は知っていたそうだ。だが政府、東京電力、東北電力、日本電源はそれぞれの思惑から公表することを止めただ。事実だとすれば、彼らは地震・津波・原発事故の加害者、協力者ということになろう。否、犯罪者である!

 あれから7年半、3.11の悲劇を想い出すはずの自然災害が続いた。地震そして台風で、多くの人も建物も大きな被害を受けた。そして、今度は北海道が。40名の方々がお亡くなり建物も道路も壊され、全域に渡る停電が起こった。交通機関、水道、およそ生活に関わる全てが機能を止めた。巨大発電所への一極集中がもたらす恐怖をまざまざと見せつけられた。これが原発だったらと、誰もが3.11を想起したはずだった。

 にもかかわらず、停電の最中に起こったのは、原発待望論であった。ホリエモンなどのカネ亡者、経済効率一辺倒の自称合理主義者、電気の便利さだけを強調する一部国民が声を上げ始めた。だから、原発があれば停電を防げたのだと!

 政府はと言えば、あの安倍ネオファシスト・単純軍国主義者は、ドンキホーテよろしく仮想敵のために惜しげもなく防衛費を膨らませたにも関わらず、北海道には震災対策費として僅かに5億円だけを出し、例によって「災害対策に全力を挙げる」と、これまでどの災害時においてもまともに取り組んだことのない嘘八百を並べてロシアに逃亡した。もちろん、将来起こりうるであろう泊(とまり)原発事故の危険性など一顧だにしなかった。

 日本は、知られているだけでも2000もの活断層があり、この10倍もの見えない活断層の存在が予想されている。いつ、どこで、大きな地震が起こっても不思議ではない。にもかかわらず、北から南まで54基の原発が存在し7基が稼働し、残りが再稼働を待っている。その多くは知られている活断層のすぐ近くに立地している。この狭い国土、地震大国に世界で3番目に多い原発が置かれている事実を、そして地震、台風の度に福島原発事故の再現があっても不思議でないことを直視すれば、どうして出てくる答えが「原発再稼働、原発推進」になるのだ! 

 原発がなくても暑い夏を乗り切り、格段の支障はなかった。稼働している7基を止めても大きな影響などない。政権者の一声でそれは可能だ。すでにドイツがそれを実現している。恐れるのは、有力視されている原発村の負託を受けている安倍政権の長期化により、原発がさらに推進されることだ。心ある国民諸氏よ、電気の便利さ、地元への恩恵だけで安直に原発を認める事なかれ!
 思想が左であれ、右であれ、真ん中であれ、今こそ原発を否定する勇気を持とう!

ヒグマさんも生きたい
2018/09/05

 こんなに台風が多い年は記憶にない。ほぼ毎週のように日本列島を脅かしている。自分は仏教・真言宗徒だから、天変地異には天のご意思があって、我らに何かを警告しているのだと受け止めてしまう。迷信だ、被災者への冒涜だなどの批判は甘んじて受けるが、己の言動に傲慢さがないか、不誠実はないか、優しさや寛大さを欠いていないかという自戒の念を自然に持ってしまう。また、亡くなられた方への哀悼、被害を受けられた方々への同情の気持ちは人一倍強いと思っている。

 ところで、今年の北海道では、人里へのヒグマの出現が多く報道されている。人家の近くに突然現れたらさぞかし驚いてしまうだろう。頻繁になれば恐怖が募るだろう。農作物への被害が出ているという。何頭かのヒグマが駆除という名のもとに射殺されている。ヒトはヒグマとこんな関わり方しかできないのだろうか。

 昨年11月に愛犬を突然の病で亡くしてしまった。可哀想で可哀想で泣いた。今でも何かの折に思い出しては泣いてしまう。トイプードルだったが、言葉がない、話せないだけで意思も感情もヒトと同じように持っていた。ヒトが動物の上の存在だとは少しも思わなかった。

 ヒグマは人を驚かそう、襲おうと思って山を下りてはこない。本来は臆病な動物なのだ。ヒトが本来ヒグマの聖地だった山・森林を開発し、狭くなって食べ物がなくなった。ヒグマはただ生きるために、食べ物を漁っているうちに里にたどり着いただけだ。そこにはヒトが無自覚に捨てた食べ物、雑に置いた食べ屑がある。一度味を覚えたらまたやってくる。すべては生きたい一心からだ。

 ヒトにも言い分がある。自分たちだって生活がある、その土地で生きなければならないのだ、と。さらに進んで、ヒグマの分際でヒトを脅かすなんてとんでもない、駆除あるのみ、と。

 ヒトもヒグマも同じなのだ。共に生きていかなければならないのだ。一方が他方の犠牲になって生きていくのではない。共に生きるのだ。だが、どうやって。それは第一にヒグマと遭遇が予想される地域のヒトの仕事であり、第二に北海道全体が取り組むべき仕事である。前提となるのはヒトの知恵だと思う。

 まず、食べ物の管理をしっかりやること。食べ残し、食べ屑をヒグマが手を付けられないように処置すること。
 次に、ヒトとヒグマの生活圏をはっきり分ける電気柵を設けること。電気柵の手前は雑草などを除去し、安全柵を設けることでヒトの感電を防ぐべきだ。ヒグマは一度感電したら二度と近付きはしない。
 さらに、単独で行動しない、音声、音楽などでヒグマにヒトの存在を知らせること。襲われた場合に備えて、反撃する道具を携行する(かつてアイヌは鉈や小刀を携行した)。ヒグマと隣接しながら暮らす地域にはそれなりの覚悟と準備が必要だ。

 しかし、より抜本的には、ヒグマが生息する山に、餌となるドングリが不足しないようにブナ、コナラ、ミズナラが育つようにすることと、ヒトとヒグマの緩衝地域となる里山を復活させることではないだろうか。ヒグマとの共存は頗る環境問題でもある。

 かつてヒグマはその毛皮のために乱獲され、今はヒトの乱開発でヒグマの居場所が狭められ生存が困難になりつつある。ヒグマは鑑賞されるのでも、駆除されるのでもなく、その本来の聖地である山奥でヒトに邪魔されることなくその生を全うすべきだ。ヒトの安全のため、ヒグマの生存のため今こそヒトが行動する時だ。

オリンピック、賛成ですか?
2018/08/06

 高気圧と低気圧がごちゃごちゃに入り乱れ、北海道の直ぐ南に停滞前線が横たわり、台風13語の接近もあって、函館はここ3日ほど曇り空で時々雨が降り、日中気温も23度前後。本州の最高気温の高さがいつも以上に別世界の出来事に感じてしまう。

 これだけ天災が続き被災地の方々が難儀している時に、2011年の震災・津波・原発事故の大災害からの普及が遅々として進まない中で、政治家や経済界はともかくマスコミがこぞって東京オリンピックを喧伝していることに誰も違和感を覚えないのだろうか?

 東京がオリンピック開催地に立候補したときの費用の試算は3千億円だった。今、経費は10倍の3兆円に膨れ上がった。見栄と利権が次から次とカネを引き出そうとした結果だ。一握りの者だけが甘い汁を啜り、多数の者がおこぼれにすら与れず、ただその後始末だけに翻弄される。

 オリンピック招致演説でアベ某はあまり上手でない英語でこう言った。「状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。」と、統御されている=「アンダーコントロール」を胸を張って言い放ったのだ。だが、福島原発では多くのタンクのあちこちから汚染水が漏れている。汚染された水が港湾に流れ出る事態が続いている。アンダーコントロールなど彼得意の真っ赤な嘘で、現実は制御不能=「アウト・オブ・コントロール」なのだ。

 サッカーの欧州選手権の日程やアメリカの野球シーズンに気を遣い、アメリカのテレビ局の視聴率を「忖度」し、秋の開催を主張することなく、40度近い酷暑と70%近い湿度の東京の炎天下に選手を晒してまで開催する必要などどこにもない!

 オリンピックがスポーツの祭典などとは現実から見れば絵空事に過ぎない。欧州のサッカー、アメリカの野球の方がオリンピックよりも優先されているではないか!

 オリンピックの経済効果上げる人たちがいる。オリンピック関連事業および雇用の創出、外国からの観光客の流入で景気が良くなるのだそうだ。なるほど、しばらくはそうだろう。5兆円ほどの経済効果があるのだそうだ。仮にその数字を認めよう。だが2本のGDPはおよそ500兆円だ。そのわずか1%の5兆円を生むのにこれだけ大騒ぎをするものなのか? 過去のオリンピック開催国が、オリンピック以後数年で景気が悪化する現実をどう説明するのだ? 3兆円かけるならば、まず天災で苦しむ人々と地域の普及を優先せよ! 二度と被害を受けないような対策をせよ!

 マスコミが動員され、オリンピック開催は国民総意であるかのような幻想が醸成されている。かつての国家総動員のような気持ち悪さ、不気味さがある。アベ某とその取り巻きどもが2年後の夏にも権力の座に居座っているならば、この日本は二度と「美しい国」にはならないように思うのは自分だけか。

あれから7年以上経って
2018/07/13

 少し前までは梅雨前線が北海道付近に貼り付いて雨が続き、今度は低気圧が梅雨前線を東西に分断するように北海道を覆っている。とにかく寒い、7月の気候ではない。この時期に、いくら北海道といえども早朝、深夜は暖房のお世話になりたい気がするほどだ。
 しかし、天に向かって文句を吐いても仕方がない。まして、広島県や岡山県など西日本の集中豪雨で200人もの方々がお亡くなるほどの悲惨さを思えば、まことにお気の毒でこちらの7月の暑さ、寒さを取り上げること自体許しがたいことだと思われてくる。

 災害の度に「危機管理」が叫ばれる。この際、クライシス・マネージメントなどとカタカナ言葉を使うことであからさまに権威を誇張する自称「専門家」諸氏の見解など聞く必要もないのだが、災害時の危機管理は専門家ではない我々こそが意識して然るべきものなのだと思う。

 残念なことに、この国の政権者達は、繰り返されるこれまでの豪雨被害の教訓を学習しなかったのか、それとも、その被害に呻吟する大衆・人民など関心の外にあるのか、迫り来る大雨にもかかわらず、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ、果てはそれをSNSで発信して大はしゃぎしている有様だ。その輪の中心には、もちろん拳を振り上げて「国民の生命・財産を守る」と宣うアベ閣下、さらには今回の被災地選出の国会議員もちゃっかりいたというから、選挙民たちはすっかりなめられているとしか言いようがない。もちろん、彼らが「危機管理」のお役に立つなどとは誰も信じちゃいない。

 かくなる上は、「自分の身は自分で守る」ことを第一に考えなくてはなるまい。なにしろ、日本は地震の国だ。7年前にあれほどの地震と津波を経験した。おまけに、この地震多い国では老朽化した原発すら稼働しているのだ。これに台風、大雨、強風が加わり、火事の心配もある。いざというときに、自分や家族、関係者はどうすべきかを、まずは自分の頭で整理し、避難と対策をより具体的に立てねばなるまい。

 それでも税金をきちんと納めている以上は、その使い道のひとつとして、「災害の危機管理」を政権者達に命じなくてはならない。まずは「飲んでいる場合ではないぞ!」なのだ。
 災害の最中ならいざ知らず、二日酔いが覚め、自分の安全が確保されてから、飛行機の上から被災地を眺め、ほんのわずかだけ被災地に足を入れ、「まさに時間との戦いなのであります」などと一体どの口が言わされているのだ、と地元民に嘲笑されるようではもはや辞めてもらうしかないのだ。
 ともあれ、今の政権者達に危機「管理」の「管理」能力、「管理」意識がない以上は、自分の身は自分で守ること以外にはあるまい。これがあの7年前の危機を経験したにもかかわらず、2018年の現実なのだ。

受験屋の最後の戦い
2018/06/18

 近頃日が長くなってきたなあと思っていたら、あと3日で夏至だった。道理でと思ったが、夏至を意識しないほど仕事に忙殺されていた。1週間が終わるのがあまりにも早い。

 あと二年に迫った大学入試改革だが、早稲田大学が2021年度入試の方針を公表し受験関係者に衝撃を与えている。全学部に「新共通テスト」と英語の外部試験を課し、各学部がAP(入学者受け入れ方針)に基づく独自試験を行う。政経学部の場合は、英語・国語の長文を読み通させた後で、「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」「主体性主体性・多様性・協働性)」という「学力の三要素」を踏まえた設問を解く、というものだ。ほぼ文科省の入試改革方針に沿った入試になるが、他の私大もほぼ同じ内容になるだろう。国公立大学がどうなるかはまだ不明だが、これまでの東大の後期日程試験、京大のユニーク入試などだ参考になると思われる。受験生にとっては対策が取りづらく、間違いなく難化するだろう。

 難化するからと言われて引っ込むわけにはいかないのが受験屋の受験屋たる所以(ゆえん)。入試改革の是非とは別に、受験屋の立場から見ると(勝手に思うだけだが)、文科省から受験業界に売られた喧嘩だ。一昔前に「ゆとり教育」が文科省から打ち出された際には、「このままでは日本は馬鹿になる」と文科省を批判し、それには多くの賛意が集まったから、塾。予備校は少子化は進む不利な条件下でもそれなりの生徒を確保し、文科省から「売られた喧嘩」(勝手にそう言わせてもらう)に受験業界あはひとまず勝ったのだと思う。今度の入試改革は一面では文科省から仕掛けた「遺恨試合(かたき討ち)」だと言えば、少なくともテレビのワイドショー的な話題にはならないだろうか。

 今度の文科省はなかなか手強い。文科省が入試改革の中核に据えた「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」「主体性主体性・多様性・協働性)」という「学力の三要素」は、「無理言うなよ、まず、お前ら(官僚・政治家。大学関係者)」自体が持ってんのかあ」と言ってやりたくなるほどの傲慢・尊大な無理筋だからだ。英語力を高めるくらいなら、受験屋にとってはお安い御用だが、「学力の三要素」の完全な対策となると「知識・技能」はともかくあとの二つは前代未聞・前人未踏の領域だからだ。しかも、2年後には喧嘩が始まる。

 だが、売られた喧嘩(くどいが、勝手にそう言っている)は買うし、喧嘩する以上は勝たせてもらわねばならない。確かに函館は「受験後進国」だが、中央と地方の受験格差と経済力による受験格差を助長する今回の入試改革を、手を咥えて黙って見ているわけにはいかない。自分の36年間に及ぶ受験屋人生の最後の戦いと思ってこの入試改革に臨みたい。無論、勝つこと以外は考えていない。

美しい日本を...?
2018/04/21

 自分は真言宗徒であるが、先日、機会があって禅宗・曹洞宗の総本山である福井県の永平寺にお参りをさせてもらった。二度目の参拝だったが、まだ雪が残る境内の空気の清涼さに思わず深呼吸してしまった。修行僧に法堂(はっとう)、仏殿、承陽伝(じょうようでん)などを案内していただき、仏殿では僧達の勤行の様子をお見せいただいた。ここでは、二百数十名の修行僧達が、僧堂の僅か畳一枚の上で座禅・食事・就寝を行っている。ここでは、24時間の全てが修行という毎日だ。どっぷり俗界に浸かった毎日の自分がとてつもなく不浄なものに見えてしまう。仏殿で般若心経を上げさせてもらい、本尊の釈迦牟尼仏(お釈迦様)の御前で反省・自省の念を抱いた次第だ。

 「美しい日本を取り戻す」とした安倍政権だが、「モリカケ」疑惑、公文書隠蔽さらにはセクハラ官僚スキャンダルなど多くの独裁政権がそうだったように、「美しさ」とは間逆な醜悪な末期的色彩を強めている。今や、政党支持、政策云々が何であれ、多くの国民の政権の腐敗と堕落への憤りは頂点に達しようとしている。
 与党内の及び腰の「安倍降ろし」と野党の非力さ・不甲斐なさに助けられて命脈を保ってはいるものの、北朝鮮への「圧力一辺倒」路線の破綻に加え日米関税問題で盟友のトランプにも見捨てられてしまった今、安倍政権は間違いなく崩壊に向かっている。
 だが、「三振してもまだ打席を離れようとしない」と例えられるほど権力に執着するアベは、政権延命工作を仕掛けるかもしれない。しかし、それを許すことは、日本の政治、経済、社会の総体を破壊する道、戦争への道を突き進むことになるだろう。かつてのファシストたちがそうであったように。

 日本は世界でも稀有な外国からの侵略を受けたことがない国だ。逆に、海外に派兵した場合は、七世紀の「白村江(はくすきのえ)の戦い」がそうであったように、秀吉の朝鮮出兵がそうであったように、そして、太平洋戦争・日中戦争がそうであったようにことごとくが手酷い敗北を被ってきた。日本は外に軍隊を出してはいけないのだ。

 「特定秘密保護法」「安保関連法」「共謀罪」など憲法すら踏みにじる”戦争法”を制定し、憚ることなく集団的自衛権を掲げ拡大解釈することにより自衛隊の海外派兵を目論む安倍政権は、まちがいなくネオ・ファシスト政権である。歴史の教訓を一顧だにしないアベ政権のこれ以上の存続は、日本国民の最大の不幸である。

報道の自由ランキング
2018/04/05

 4月になった。長く、つらい冬だったと改めて思う。比較的冬が温暖な函館だったから、余計そう思う。道外では、早くも桜が散り始めたという。なーに、ここまで来たら焦ることはない。厳しい冬に耐え、やがて見事に咲く北国の桜を、いつも以上に愛でたいと心から思う。

 国際NGOとして「国境なき記者団」という組織がある。パリに本部を置くNGOだが、取材のため拘禁されているジャーナリストの救出活動、その家族の支援活動の他、世界各国のメディア規制の動きへの監視・警告を行っている。このNGOは、毎年「世界報道自由ランキング」を発行しているのだが、それによれば、昨年度、日本は180ヵ国中72位だった。
 民主党政権下で11位だったのが、第二次安倍政権下で順位は急降下し、53位、59位、61位、72位とランクを落とした。ちなみに、第1位はノルウェーで、上位を北欧が独占する。主要な国では、ドイツ16位、フランス39位、イギリス40位、アメリカ43位だ。
 日本が先進国で突出して低いのは、特定秘密保護法や共謀罪など、表現の自由を規制する法律の制定が大きい。また、政府高官の記者への高圧的な態度や恫喝、「知らぬ存ぜぬ」、果ては明らかな「嘘」、報道機関への圧力強化などが指摘されている。

 一方では、報道側から政権側へのすり寄り、迎合により報道の自由を「自主制限」しているようにもお思える。別に仲良くしなければならない理由はないと思うのだが、政権側、それもトップたる総理と、報道側トップとの度重なる会食が明らかになっている。ご馳走されたかどうかは別にして、飲食を共にしている相手を、翌日の報道で批判するのは中々難しいだろう。

 最近、朝日新聞がすっぱ抜いた財務省の改ざん文書の存在を巡って、忘れかけていた森友問題が再びクローズアップされたが、報道機関として久しぶりのヒットであった。だが、昨年成立したきな臭い法律への検証、原発存続の可否、アベノミクスなる経済政策への評価、辺野古移設、日本の軍事力の強化、その他現政権が打ち出す政策、政権運営への批判的記事はほとんどお目にかかることはない。報道から政権批判を取って残るのは一体何だろう?

 新聞始め報道の責務は、時の政権が何であれ、それが右翼政権であれ、左翼であれ、中道であれ、政権の真実を暴き出し、検証し、報道することで世論を喚起することだろう。その全てを指して「報道の自由」と言うのだと思う。政権側からの規制に対しては毅然と立ち向かうこともまた報道の使命だろう。況んや、自ら政権の批判を控える、あるいは迎合するなど報道の「死」に等しい。北朝鮮のランクは180位だと言う。日本がこのランクまで下降しないという保障などどこにもないことを、報道側も国民も知るべきだと思う。

受験屋風情が
2018/02/26

  昨年末から、手強い「女の子」に振り回されっぱなしだ。「男の子」のせいで暑い夏が続いてきたが、それに取って代わった「女の子」もなかなかしたたかだ。「男の子」はスペイン語でエルニーニョ、「女の子」はラニーニャだ。昨今の寒波・大雪の最大の原因はラニーニャ現象だと言われている。春先まで続くと聞かされれば、雪かきで痛めた腰が疼き、デコボコ道路のノロノロ運転にうんざりしてしまう。「春よ来い、早く来い」と切実に思う。

 2月25日の国立大学前期日程入試が終了し、今年の大学受験シーズンは大団円を迎えようとしている。センター試験が好調だったので、大いに期待している。
 すでに大半が合格発表を終えた私大入試、国公立大AO入試・推薦入試では望外の大快挙だった。国公立大では札医大・医学科、千葉大・文学部、北大・看護、山形大・理学部に合格し、防衛医大・医学科、国際教養大にも合格を得た。、私大では早稲田、慶応、明治、青山、立教。法政、中央、同志社。立命館に複数名合格を果たした。我が校生徒諸君の努力・精進・頑張りに心から敬意を表したい。

 受験屋風情が何を言っても始まらないが、2020年度からの大学入試改革のいい加減さに開いた口が塞がらない。そもそも高校の教育課程を変えずに、「暗記中心の試験から、思考力、判断力、表現力を重視する」入試に変えようということひとつを取っても、いかに急造で、現場の意向を反映しない入試改革だと言って良いだろう。さらに、記述試験の採点を受験業者に外注し、鳴り物入りの英語4技能検定も外部業者試験だ。受験生の将来に関わる入試を業者に丸投げしようというのだから呆れてしまうほかはない。GTEC、英検のための高校英語になることを誰も疑問に思わないのだろうか。

 「応用力重視」と言えば聞こえはいいが、要は、暗記した知識を組み合わせて判断し表現をすることになるから難易度は格段に高くなるはずだ。結局、こうしたことを指導できる態勢を整え、それを十分に受け止め、吸収できる生徒がいる「進学校」がますます有利になるのは自明だ。中高一貫校を多く抱える東京などと地方の受験格差はますます拡大するだろう。

 入試改革一般に反対するわけではない。だが、共通一次試験導入から約40年、1990年からは大学入試センター試験と名称が変わったが、お題目であった「受験地獄と大学序列化の解消」が出来た訳ではなく、明らかなのは受験生の低学力化だ。このことの反省もなく突き進む大学入試改革の将来に危惧を抱き、むしろ「共通一次試験以前の大学入試に戻れ」と叫びたくなるのは、自分のノスタルジーだけであろうか。

国技・大相撲の終焉
2018/01/07

 穏やかな正月だった。雪が降らず、気温もこの時期にしては厳しくなかった。センター試験本番もこうであって欲しいと切に願う。

 服装といい、態度といい、何もしゃべらない不気味さといい、貴乃花親方はヒール役を探すマスコミにとっては願ったり叶ったりだったろう。

 しかし、明らかに悪いのは貴之岩に因縁を付けて散々痛めつけた日馬富士であり、ろくに止めもせず暴力を黙認した白鵬を始めとするモンゴル力士達だ。まずはこれを糾弾し断固たる処分をするはずが、八角理事長−池之坊評議員会議長らは、日馬富士に引退勧告、白鵬、鶴竜には減給というチョウ甘処分でお茶を濁したのだった。池之坊某が散々喧伝する「公益法人」が常識ある組織なら、例え功労者であろうが何であろうが、「暴力根絶」を掲げる限り、当事者は相撲界からの永久追放であって然るべきであろう。
 にもかわらず、厳罰に処したのはいわば被害者側の貴乃花親方の方だった。評議員会議長の池之坊某が、前代未聞の「「理事解任=二階級降格」の理由を力説してみせた。「理事としての報告義務違反、非協力」と並んで「特に上司でありかつ先輩でもある八角理事長が何度携帯電話に電話しても全く応答がなく、折り返しの電話もないというのは著しく礼を欠いていたのではないか」、つまり相撲は国技であり相撲道は礼に始まり礼に終わる」からだと。ならば、池之坊議長よ、八角理事長よ、頭を10針も縫う怪我を負わすのは、「礼」を欠くどころか人にあるまじき蛮行と断言して良いのではないのか! それに貴乃花が報告義務を怠ったというのなら、暴力現場にいたモンゴル力士一行にこそ報告義務が先ずあるのではないのか!頬被りして逃げた彼らにこそ2階級降格が相応しいのではないのか! 明らかに、協会主流派はモンゴル勢に加担・擁護し、それに批判的な貴乃花とその一派の追い落としを画策したのだ。

 神事に連なる国技としての大相撲から見ると、白鵬の張り手、かち上げは明らかに美しくない。しかし、ルール違反ではないから、勝敗を競う格闘技スポーツとしての大相撲では全く問題はない。言葉も生活も習慣も何もかも日本とは異なるモンゴルからやってきた力士とその予備軍にとっては、「勝つこと=番付順位を上げること」が第一であり、やがては朝青龍のように故郷から尊敬される横綱・大関になることが全てなのだ。そこに国技=大相撲の意識はほとんどない。そして、朝青龍、白鵬を頂点に、彼ら「モンゴル軍団」は日本大相撲を席巻したのだ。

 恐らく大相撲は「国技」という名を残しつつ、格闘技スポーツへと大きく舵を切ったのだと思う。それは、「神も仏も信じない」という現代の風潮の中で、神事に由来する国技・大相撲の終焉であり、オリンピックのメダル獲得を頂点に、「勝敗こそ全て」の時代に相応しい「新しい」大相撲という名の格闘スポーツの誕生を意味するのかもしれない。かつての柔道がそうであったように。

 この国技・大相撲の崩壊は、栃錦・若乃花の取組をラジオの前でドキドキしながら聴き、大鵬・柏戸の力相撲をテレビで拳を握りながら観戦した世代としては残念な限りである。今にして思えば、あの若乃花・貴乃花兄弟横綱時代が国技・大相撲の最後の始まりだったかもしれない。

自分だけか?
2017/11/07

「アベノミクス」を掲げ、その成果を盛んに喧伝してきた第二次アベ政権の5年間で何が起こったのか?

<増税の部>
消費税を5%から8%に
所得税、住民税、相続税、固定資産税を増額
<減税の部>
大企業の法人税

つまるところ、大衆からは収奪し、その分大企業に回したということか。

<国民への新たな負担>
年金支給額
配偶者控除の廃止
生活保護費の削減
国民年金の引き上げ
介護保険料の引き上げ
児童扶養手当の削減
電力料金、高速道路料金の値上げ

 これだけ国民に負担を強いたのに、「円安誘導」で起こった株高で、海外のハゲタカどもに100兆円をプレゼント、ない袖は触れないはずなのに、「地球儀を俯瞰する外交」とか「積極的平和主義」とかをぶち上げて海外に70兆円をプレゼント。

 円安誘導による輸出の増加で、関連企業とその社員は潤ったかもしれないが、残ったのは乱発した借金=国債の山また山、200兆円が積まれてとうとう1000兆円を超えてしまった。

 これが、アベ某が聲に成果をぶち上げるアベノミクスの実態だ。雇用は確かに増えたが、非正規雇用が突出した。残業代はまともに出ない。「女性が輝く社会」と言うのに、どうして過半数が非正規雇用なのだ、どうして年収が200万に満たないのだ、どうして、地方のデパートには客がいないのだ、そもそもどうして地方からデパートが撤退するのか、アベノミクスで説明してもらおうじゃないか。

 トランプに先立って娘のイバンカが来日した。ハリウッドスター並みの大歓迎だ。アベ某は、イバンカ基金に57兆円、高級料亭で大接待、マスコミはファッションがどうのこうの、学歴・職歴がどうのこうの...あきれかえってしまう。ただの娘ではない、大統領補佐官というアメリカ政府の一員なのだ。ならば、なぜトランプの反環境政策、人種差別を問いたださないのだ。なぜ対北朝鮮の言動を問題にしないのだ。なぜ、馬鹿騒ぎで終わってしまうのだ。

 そのトランプがやってきた。日本は平和だ。ヨーロッパとは違って反トランプのデモなどなかった。アベ某は「国難」と言ったはずなのに、ゴルフするか? 鉄板焼きか? 嫁同士は銀座の宝石店で真珠漁りして、トランプ嫁に150万円の真珠のプレゼントか? 

 なんかこの国は、上から下まで狂い始めていないか? 自分だけか、こう思うのは?

秋深し、雑感
2017/10/24

 寒くなってきた。朝晩の暖房が欠かせなくなった。雪虫を見かけることも多くなった。ここ、北の国では秋と冬が短い期間で入れ替わる。

 選挙が終わった。誰もが疑問を感じた解散理由の「国難突破」。政権者は勝手に解散時期を決めるから、普通は政権与党が勝つはずだし、その通りになった。にしても、「国難」とはな...。

 北朝鮮の核開発・ミサイル実験が危機でないとは言わない。彼らを擁護・支持する気もない。小国が超大国から凄まれたときに、ヘイコラするか、徹底的に逆らい通すか、彼の国は極めて危険な後者を選んだのだと思う。そして、隣国である日本は、その超大国の肩を持って、否、超大国と共に小国を懲らしめることを国民に強いようとしたのが今回の選挙だろう。当然、そのために必要な海外派兵・交戦権を可能にする憲法改定をも正当化しようとしたのだろう。そして、最初のすったもんだはあったが、政権者の目論見通り、政権与党は大勝利した。日本は北朝鮮「征伐」だけでなく、アメリカに見倣って「世界の警察官」面をして、晴れて合法化された自衛隊・国防軍に日の丸を掲げて、米軍と並びながら世界に出て行くのだろう。果たして、政権与党に票を入れた方々はこの事を真面目に考えていたのだろうか? 自分は、この国の少し先に見えるものが怖くてならない。

 もうひとつの「国難」は消費税だという。消費税を2%分増税するのだと言う。これで得られるはずの5兆円分を全世代にばらまくのだという。特に、教育の無償化に使うのだという。これが「国難」なのだそうだ。我が政権者の用語はよく分からない。何しろ、「云々」を「でんでん」と読んでしまう極めて優秀な方だから。

 しかし、教育無償化それ自体は、有権者からは好感を持って迎えられた。何しろ、大学の授業料さえもタダにしようというのだから。反対する理由がないではないか、何やら、数年前の民主党政権の「子供手当」を彷彿とさせ、いや、それ以上の大判振る舞い。しかも、これを消費税でまかなうと言う。電卓叩いても絶対に出てこない数字を怪しむこともなく、「さすがはアベさん、自民党さん」という声が沸き上がった。

 ここまで来ると、野党がどうもがこうと、「緑のたぬき」のテーマソング「小池にはまって さあ、たいへん」が流れようと政権与党の勝利間違いなしとなった。「タダほど高いものはない」の格言などどこかに消えてなくなってしまった。そして、いわゆる改憲勢力が2/3をはるかに超える議席を得た。

 今、とても憂鬱である。我が生徒を目の前にして、この子らを戦争に向かわせてはならないと思う反面、多くの国民を巻き込みながら奔流となりつつあるこの時代の流れに抗う(あらがう ×あがらう)には余りにも無力であることを恥じてしまう。もう待ったなしなのにと思いながら。

北朝鮮問題に寄せて
2017/10/18

 日増しに寒くなる。朝は、教室にも短時間だが暖房が入った。雪虫を目撃したという生徒が多くなってきた。冬が近い。

 総選挙だが、報道機関はアベ与党の圧勝を予測している。小池「ジャンヌダルク」が率いる政党が大躍進するはずが、実は極悪王妃「マリー・アントワネット」の選別、差別、奢りの産物だったことが分かると、急激にしぼんでしまった。「マリー」のご威光にすがった哀れな民進党のおっさん達が、「騙された」とか「合流すべきではなかった」と嘆いても後の祭り。政治信条を投げ捨ててまで当選にこだわった、政治信念など全くない無節操な輩には落選の鉄槌が待っている。

 にしても、開票後のアベの高笑いが、今から聞こえるようで実に憂鬱だ。ジャイアンの手下のスネ夫、いや、虎の威を借る狐=アベ某は、狂人としか言いようがないトランプの背後から首を覗かせ、「圧力、圧力」を聲高に繰り返し、アメリカの軍事行動をも積極的に支援、否、共に行動することを強調している。
 「圧力」とは宣戦布告そのもの、少なくとも開戦の恫喝であるのは世界の常識だ。かつて、アメリカは日本に経済制裁を含む様々な「圧力」をかけ、最後は日本の石油輸入を完全に止めた。後のなくなった日本は、真珠湾奇襲を手始めにアメリカとの戦争に突入、あの悲惨な第二次世界大戦の結末を迎えるに至った。歴史は繰り返すという、しかも、悲惨な歴史は、二回目はさらに悲惨な歴史を生むという。今が、その時に近づいていることをどうして否定できようか。

 会社が倒産するとき、多くの社員はその日が来るまでほとんど無警戒だそうだ。質素倹約、無理な売上げ目標、生産の手抜きなどの兆候が少しずつ出始めるが、ほとんど危機感を持たないそうだ。社員の多くが、「ひょっとしたら」と思い始めた頃、会社は倒産を迎えるのだそうだ。今、国民の多くは、「まさか、日本が戦争になんか」と思っているかもしれない。

 朝鮮半島は、朝鮮人民の意思ではなく、アメリカ、中国、ソ連など外国の利害のために南北に分裂させられ、同胞同士が殺戮し合う戦争を強いられ、南北分断が固定され、現在に至っている。この分断をどうするかは基本的には朝鮮人民の問題であって、アメリカはもちろん日本、中国などがしゃしゃり出ること自体が問題なのだ。
 北朝鮮が核武装することは言語道断だ。その技術、資金があれば、どれほど北朝鮮の農業はじめ産業が振興し、人民の暮らしが良くなることか! だが、そのことが、現に核武装しているアメリカなどが、「俺の核武装はいいんだが、お前はダメだ」との言い分が通ることにはならない。北朝鮮の核武装化は、主としてアメリカの軍事的圧力と執拗な経済制裁と、北朝鮮の支援国家だった中国との確執によって、北朝鮮の孤立化がいっそう深刻になった中から生まれた。宣戦布告に等しい「圧力、圧力」によって、この先、北朝鮮がかつての日本と同じ選択をしない保障はどこにもない。

 度重なる北朝鮮のミサイル発射、そして我が政府のマスコミを動員した「危機煽り」によって醸成された国民の不安・危機感を最大限に利用し、「国難突破」なる時代錯誤のスローガンを掲げる我が国首相アベ。これを、何の疑問もなく支持し、後押しすることの危険性をこの選挙を通して自覚することを強く望んでいる。

総理は国の父?
2017/10/06

 もしアベさんが日本国の父だとすれば、ずいぶん稼ぎが悪い割には、借金はするは、道楽はするは、そのくせ偉そうなことを言うはで、子供である国民はこの家(国)から家出したい気持ちなってしまう。

 なにしろ、この親父の稼ぎは年間50万円(50兆円)、借金はその2倍の100万円(100兆円)だ。これまでの借金の総額は1000万円(1000兆円)、普通だったら、もっと稼ぐことを考え、借金は出来るだけ減らそうとするだろう。なのに、この親父は、しょっちゅう銀行(日銀)に出かけては、もっと金を出せという。ついでに、勤め先に出かけて、金曜日は働かねえぞ、残業なんかしねえぞ、でも給料は上げろよ、と凄んでみせる。

 それに、どうも、お隣の家(北朝鮮)には悪ガキがいて、いつ何時何をされるか分からないからと妄想して、戸締まりを丈夫にし、悪ガキがあまりにもひどいから、遠くの親戚(アメリカ)と組んで殴りに行こうかと考えているらしいのだ。ついでに、隣の家をばらばらに壊してやろうかなとも考えている節がある。「危機だあ」って毎日叫ぶけど、家族は、なんか問題をずらしてないか、なんか隠してないかと訝っている。でも、親父は「我が家の危機の突破」に金がかかるから、借金だあとわめき散らし、子供にはもっと稼げ、ウチにカネを入れろよ(消費税増税)って言ってノルマ(10%)まで課す有様だ。
 町内の人たちにも一緒に殴りに行かないか、って誘っているようだ。でも、先日、町内会(国連)で、それをがなり立てたら、みんないなくなってひとりで拳を振り上げていたな。

 家族は、そこまでしなくても良いよ、と親父に言うものの、親父は、子供たちを大学に上げてやるから(教育無償化)ぐたぐた言うな、カネは親戚筋からかき集める(消費税)から心配すんな。なんなら、一筆とっておく(憲法改正)から、と一杯機嫌でぶち上げる。

 おばあちゃんとおじいちゃんが、わしらの病院代はどうなるんだい?って食ってかかるが、親父は、平然と、借金の使い道を検討中だ、まあ待てとなだめにかかる。

 あれっ、仲間に貸したカネの金利(法人税)を下げちゃうの? 心配すんな、おまえらが稼いで、穴埋めすればいいんだよ(消費税増税)、あの仲間たちには何かと世話になっているからな。

 それに、親父よう、ウチが持っていた土地、カケさんとモリさんにただで上げちゃうの? 小さいことでがたがた言うな、カケは俺の昔からのダチで、モリさんは嫁のサークル仲間なんだよ、それに、後で良いことあんだよ。あまり大きな声出すなよ。

 で、親父よ、借金は誰が返すんだい? さあな、多分子供と孫じゃないか、俺は知らないよ。それよりも、もっと借りなきゃな、それに、おまえたちにばんばん稼いでもらうからよ。だから、大学にタダでいかせんじゃねえか。ついでに、お隣に殴り込みかけるから手伝えよ。

 あっ、そうそう、「緑のたぬき」、いっぱいスーパーで買ってきたから、一緒に食おうぜ。120億円当たる抽選券付きだよ。マエハラ君が、そう言ってたよ。当たれば良いな。

 ところで、大谷君、本当にトランプの国に行っちゃうのか?

これって、ブレかなあ
2017/10/06

前回、一旦終了宣言した塾長日記ですが、OBから「止めるな」メールががんがん届きました。「威勢の良い塾長の話で元気になります。」、「ユニークな内容が無くなるのは寂しい」etc,etc
それで、再開します!
月に一回程度は更新することにします。
お騒がせしました。

最後の塾長日記
2017/09/20

 塾長日記を公開するようになって20年近い歳月が流れた。受験屋風情が、時には政権者に噛み付き、時には受験業界を批判し、スポーツ、音楽、芸能界などに関して拙い論評をしてきた。日記と称しながら、週刊、月刊どころか季刊にまでなってしまった。話題がないというわけではないのだが、あまりにも仕事が多忙で、書き始めたたいいが、そのまま中断することが多くなり、時機を逸して公開することが憚れてしまった。加えて、ツイッター、最近になってブログも始めてしまい、なかなか日記に手をかけることができなくなってしまった。そういう訳で、今回を持って一旦終了することにした。

 最後の日記ということになったが、私の心情を素直に書き連ねたいと思う。

 生業としている大学受験に関してだが、函館の現状に強い危機感を持っている。とにかく難関大学に入らない。東大、京大、東工大、一橋大などの超難関大学は合格者がまず出ない。北大ですら理系は壊滅状態、文理合わせてほんの数名が受かるだけ。医学部志望者は多いのだが、推薦入試、AO入試で若干名が合格するものの、一般入試ではまず受からない。にもかかわらず、生徒も保護者もあまり危機感を持っているようには思えない。これが大学を目指すものの態度か、と思わず唸ってしまうほどの不勉強ぶり。 高校生になってすぐに準備をするならいざ知らず、3年生の部活終了を待って北大だ、医学部だ、獣医学部だ、早稲田だ、慶応だと言われても間に合うわけがない。なぜ、ここまで何もしなかったのだ、と呆れてしまうが、これが函館の高校生の偽らざる現状だ。おまけに、東京や首都圏などが大学入試に存分にお金をかけるのに対して、函館はあれだけ高校入試にお金をかけて塾通いをさせていたにもかかわらず、大学入試となるとほとんどかけようとしない。勉強はしない、お金はかけない、では到底戦えるわけがない。もちろんお金を出すことがそのまま合格につながるわけではない。それなりの大学を目指すなら、とにかく勉強をして欲しい。

 2020年度から大学入試改革と称して現行センター試験に替わる新共通テストが始まる。グローバリゼーションにふさわしい大学にするために、大学入試も一新するのだそうだ。この改革を主張したアベ総理が「云々」を「でんでん」と読んでいる始末だから、この入試改革って何だ?と茶々を入れたくなるのだが、それはさておき、そもそも大学入試って国全体がひとかたまりになってやるものなのか? 国の顔色をうかがいながら入試を行い、国のご意向に従って大学をいじらねばならないものなのか? 大学の自治、自立こそ大学の存立の基礎なのではないか? 何もかもが、グローバリゼーションに踊る必要があるのか? 国が目指す大学は完全に理系偏重になっている。軍事研究すらターゲットになっている。文学部、教育学部始め文系は彼方に追いやられようとしている。要は、産業に貢献し、国家に貢献する大学に改変しようとしているのだ。グローバリゼーションの名の下に! これに対して、なぜ今の大学は怒らないのか? なぜ学生は黙っているのだ!

 北朝鮮のミサイル発射、核兵器化は論外だが、我が国政権者のアベ某は、トランプの尻馬に乗って、「全ての選択肢がテーブルの上にあることを言葉と行動で示すトランプ氏の姿勢を高く評価」するのだそうだ。つまり、アメリカが北朝鮮に軍事行動を起こすなら日本は支持しますよ、ということなのだ。支持するからには、2年前にほとんど反対なく成立した安保法でいっそう強化された「日米軍事同盟」が発動され、日本が戦争に突入するのは当然となる。しかも、アメリカの思惑は、「アメリカ人の血は流さない」だから、日本と韓国の軍隊・国民の血が流れることを意味するのだ。誰がこんな事態になることをアベに許した? 我ら国民か? 冗談ではない、そんな軍事行動など誰も望んでなどいない! しかし、反対勢力が分裂し、脆弱なのをあざ笑いながら、モリ・カケの不始末のもみ消しを目論みつつ、アベ某は解散・総選挙に打って出ようとしている。ここでのアベ一派の大勝は、アベに軍事行動への全権委任を意味してしまうだろう。日本の自衛隊がアメリカと共に北朝鮮を踏みにじり、中国・ロシアその他の国に日の丸を見せつけるのが「軍事少年」時代からのアベの夢なのだ。国民各位よ、確かに経済・景気も大事だ。だが、今こそ、勇気を持って、アベ政権にノーと言って欲しい。

 「アメリカの軍事行動に与しない」という政党・個人であれば誰でもいいから投票して欲しい。
   Anyone but アベ!

 少し毒があったかもしれないが、最後に吠えさせてもらった。これからは、ツイッターとブログでお話をさせていただこうと思う。それでは再開するまで、さようなら。
 

東京五輪はやめよう!
2017/08/01

 8月になった。昨日あたりから、函館でもセミの鳴き声が聞こえてくる。真夏だなあと思うが、受験屋の悲しさで、このところ日が短くなってきた、冬至までどんどん夕暮れが早くなって、受験の季節の始まりだなあ、などと一人で緊張したりする。校舎は、夏期講習の真っ最中だというのに。

 テレビ、新聞に2020年東京オリンピックが登場しない日はない。誰が決めたか分からないが、何でもかんでもオリンピック優先、共謀罪もオリンピックの安全のためとかという理由で委員会審議をすっぽかして成立、予算を回さなければならない所があるのに、オリンピックにつぎ込む。ついでにオリンピックまでに憲法改正もやっちゃおう、に至っては呆れてものが言えない。豊洲移転問題だって、オリンピックのために急いで移転しなければならないという。あれだけ騒いだ汚染水、汚染土壌問題はどこへ消えたのだ。東北、九州の震災からの復興は待ったなしなのに、人手も、資材もカネと共にオリンピックに回ってしまう。アベノミクスとやらで東京は豊かになったらしいが、誰も信じていない「トリクルダウン理論」、要は、金持ちが豊かになれば下々の者にもおこぼれがありますよ、という世界でただの一度も実現したことのない絵空事を振りかざし、「地方の隅々まで、暖かい風を届ける」という真っ赤な嘘をまき散らす。で、この函館では、誰に聞いてもトリクルダウンなど起こらず景気はさっぱりだという。それなのに、「東京」オリンピックだそうだ。これ以上東京一極集中をしてどうしようというのだろう。

 マスコミの劣化が指摘されている。そりゃそうだろう、新聞社の幹部連中がアベさんと毎度楽しく豪勢な飲み食いをして、誰が払っているか分からないが、ゴチになって政権批判を書くわけにはいかないよな。で、オリンピックも同じ。誰もオリンピックの批判を書かない、報道しない、代わりに、マスコミはメダルの予想に明け暮れる。国別のメダルの取り合いについては、五輪憲章にすら禁止の規定があるのにだ。これでも、オリンピックに反対するのは「非国民」か?

 それにだ、なんでこのくそ暑い真夏に開催しなければならないのだ? 昔は10月、スポーツの秋だったろう。何でも、アメリカやヨーロッパが放映権収入が一番見込めるプロスポーツの開催時期である秋を避けたいからなのだそうだ。オリンピックは完全に下に見られている。なのに、国際オリンピックで多数を占める欧米の委員たちは、開催を巡って利権をほしいままにしている。可哀想なのは、炎天下で走らされる選手たちと観客だ。

 オリンピックには反対である。開催国のその後の不況もそうだが、いいことなど一つもない。スポーツの振興? レガシー? インフラ整備? 経済活性化? 戦後のに日本じゃないんだから、オリンピックでなければできないというわけじゃない。それに、これから開催したいと思う国はなかなか出てこないだろう。東京の次は、パリそしてロスだそうだ。その後はないらしい。カネを食い、一握りの奴らだけがうまい汁を吸うオリンピックの真実に気付くのは当たり前だ。少なくとも日本はもうやめよう。今からでも遅くない。1000億円払えばキャンセルできるそうだ。まだ他にも必要かもしれないが、この馬鹿げた協奏曲ならぬ狂奏曲をやめることができるなら安いものだ。その代わり、オリンピック誘致で潤った方々にもそれ相応の負担をしてもらおうじゃないか。こんなことを言うと大顰蹙かな?

空海さんの学校
2017/06/19

 学習塾を経営している者の少なからず多くが理想としているのが、吉田松陰とその私塾である松下村塾だ。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋など幕末、明治維新の英雄を輩出した松下村塾は、先生が教えるだけの一方通行の教育ではなく、松陰とその弟子達は、お互いに自由に議論し、教え合い、学び合いを旨としていたそうで、さしずめ「コーチング型」学習塾の源流と言えるかもしれない。
 松陰自身は、「知行合一」の陽明学者であったせいで、その行動は鮮烈を極めた。松陰を崇める方からはお叱りを受けるかもしれないが、かなり「狂っている」、「よく分からない」お方といったほうがいいかもしれない。東北の海防調査を計画したが、所属する長州藩の通行手形が降りず死罪覚悟の「脱藩」をした。黒船に盗んだ小舟で横づけし、乗り込みを図り追い返された。こうして、牢屋を経験すること実に5回に及んだ。心配して反省を求める弟子達に激高、絶交を言い渡したりもした。最後は安政の大獄に連座し、29歳の若さで処刑されてしまった。
 こんな松陰だが、地位、門閥に関係なく、若者を師弟の区別なく育てることに努めたが、弟子達には、常々「諸君、狂いたまえ」と説いたそうだ。現状に満足することなく、常識や慣習に挑むことの大切さを、身をもって実践したのだからすごいとしか言い様がない。教育者が憧れる一人ではある。

 自分は、若いときはかなり松陰先生を尊敬していた。身を縛られるようにして時代を生きることへの反発がそうさせたように思う。今は、真言宗に帰依しているせいもあって、教育者としての空海さんに惹かれている。
 空海さんの起こした「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」は、829年、京都の左京・九条の邸宅に設立した我が国最初の民間教育機関であった。地位、貴賎に関わらず、向学心も持つらゆる人々に開かれた学校だった。綜芸はあらゆる学問,種智は仏の智を意味しているが、授業料は一切なく、目指したのは社会に貢献する人材の育成であった。空海死後、運営費用の問題もあって綜芸種智院は閉鎖されてしまったが、その精神は受け継がれ、江戸時代になって「寺子屋」、「私塾」となって結実した。
 寺子屋の数は全国で1万を超えたと言われ、庶民の多くがここで「読み・書き」を学んだ。当時世界で最も識字率の高かった日本の教育を支えたのは実にこの寺子屋であった。また「私塾」も多く作られ、鳴滝塾(長崎・シーボルト)、適塾(大阪・緒方洪庵)、洗心洞塾(大阪・大塩平八郎)、梅花塾(大阪・篠崎小竹)などからは有能な門下生が輩出された。江戸末期の、かの松下村塾もそのひとつである。
 
 もちろん公的教育には立派な目的・使命がある。一方では、私教育もまたそれに劣らず重大な使命・目的がなければならない。第一ゼミナールを起こしてから35年の歳月が流れた。ノブレス・オブリージュの旗を一層高く掲げて行きたいと願っている。権力の威光を借り、権力に寄り添い、大衆を欺きながら作られるかの獣医学部など、果たして私教育の存在意義を理解しているのであろうか。

阿修羅像に思う
2017/02/09

 学生時代、札幌にいながら、「カップルで見たら別れが待っている」という都市伝説を信じたわけではないが、”雪まつり”には余り縁がなかった。北大の寮から混み合う市電に乗って、酷寒の札幌の夜の大通公園まで出かけるには多少の”気合い”が必要だったからではなかったか。要は無精なのだ。札幌を離れてからは、専らテレビのニュース番組で雪まつり光景を見て、大雪像のあまりの見事さに感心している。

 今年は、大通り8丁目会場に、興福寺中金堂の大雪像が鎮座している。夜になるとプロジェクションマッピングで、興福寺の国宝「阿修羅像」が投影され話題になっている。
 
 興福寺に安置されている実際の阿修羅像はとても人気があって、思わず「可愛い〜」とおっしゃる女の方々が大勢いらっしゃるんだそうだ。自分はさすがに「可愛い」ではなかったが、数多く見た仏像の中で明らかに少年を想わせる阿修羅像には、表情の異なる3つのお顔のせいもあって、少なからず戸惑いを覚えた。
 古代のインドの神話になるが、阿修羅=アスラは最強の神であるインドラに娘を奪われ戦いを挑むが敗れて天から追放されてしまう。
仏教に取り込まれてから、アスラは阿修羅と言われることが多くなったが、お釈迦様の守護神である帝釈天=インドラとやはり戦ってばかりいた。この戦場が”修羅場”と言われるのだが、古代インド同様に常に敗北し、六道の修羅界に鬼神として追放されてしまう。あの少年が?である。ただし、その後は仏の教えに目覚め、八部衆に加えられ、釈迦如来様をお守りするようになる。3つのお顔のうち正面は仏教に目覚めたお顔、左のお顔は後悔と反抗を、右のお顔は憂いと懺悔を表すと言われる。少年阿修羅に、果たしてそのような苦難の歴史を背負い込むことができたのであろうか、少年にして反抗への後悔と懺悔、そして仏教への帰依に至る葛藤を続けざるをえなかったのか、阿修羅像と向かい合い自分はやはり戸惑ってしまった。

 奈良・興福寺は、710年に藤原不比等により創建された。薬師寺とともに南都六宗・法相宗の中心寺院である。度々火災に見舞われ、都度再建されてきたが、明治の廃仏毀釈で崩壊の危機にも見舞われた。現在、境内に3つある金堂の中核である”中金堂”は大修復工事を経て平成30年に再建されることになっている。また、阿修羅像に会いに行きたいが、今度は何を感じさせ、思わせてくれるのだろうか。

新年最初の塾長日記
2017/01/10

 年が改まった。『塾長日記』と名付けたものの、良くて月に1回、下手すれば季節ごとの追加になってしまった。書きたいことは山ほどあれど、電話、面談、打ち合わせ、教科指導など途中での度重なる中断で中々うまくいかない。まあ、これは半分以上は言い訳だ。

 センター試験が3日後に迫った。校舎がいつも以上に静かだ。ほぼ全員がセンター試験過去問に取り組んでいる。理科と地歴公民はかなり有効だと思うし、国語、英語、数学も時間の配分、解く順序など確認は大事だ。それに、誘導式のセンター試験のためのいわゆる「センター脳」を作っておかなければならない。直前の「本番レベル最終模試」の成績に気を良くはしているが、今は、本番まで健康を損ねることなく、「普段着」での受験で追われるように気を使い、そして、お祈りしたい。

 さて、トランプが掲げる「アメリカ第一主義」に世界第一の自動車メーカーであるトヨタが早速屈服したようだ。トランプがクレームを付けたメキシコでのトヨタ新工場建設、どこに何を作ろうが勝手だと思うのだが、トヨタはそうは思わないらしい。アメリカに1兆円を投資するのだそうだ。メキシコ新工場お目こぼしの見返りかどうか分からないが、実に情けなく不愉快な気分になった。
 かの安倍マリオも、まだ大統領に就任もしていないトランプの下に猪の一番に駆けつけ揉み手した。ついでに、訳もわからない真珠湾訪問でオバマにへいこらする。大遅刻のプーチンに温泉まで準備して、これまた揉み手する。マリオにしても、トヨタにしても、政治、経済の我が国トップの腰抜けぶりに、「日出処の天子、書を没する処の天子に致す」と言ってのけた聖徳太子と比較してしまうのは自分だけか?

 グローバリズムの正体が垣間見える気がする。グローバリズムとは超大国の下での世界再編だ。このままでは、日本はアメリカへの従属を益々深め、アメリカの思惑に沿って、北方領土がらみのロシアとはなあなあの関係を、中国とは政治的・軍事的には一層の緊張関係を作らざるを得ないだろう。謳い文句の「ヒト・モノ・カネ・情報の自由往来」が無秩序=無政府的に進むものでは決してない。

 とはいえ、我が受験生は大学進学とその後の就職で否応なしに「グローバリズム」の世界に入り込むことになる。体制=大勢に無条件に迎合することなく、自分の意志、学識、良心に従って文字通り「独立自尊」を貫き、自分の夢の実現に向かって進んで欲しいと心から願っている。

 

電子書籍は歴史物だらけ
2016/10/20

 歳をとると「歴史もの」に惹かれるという。自分も例外ではなく、電子書籍の端末は歴史小説が幅を利かせるようになった。『のぼうの城』、『壬生義士伝』、『村上海賊の娘』は一気に読んでしまった。多少手当たり次第の感はあるが、短期間でかなりの数の歴史物を読み楽しませてもらった。中でも『天を衝く』(高橋克彦著)は秀逸で、わくわくしながら読んだ。「秀吉に喧嘩を売った男・九戸政実(くのへまさざね)」が副題だ。どうも自分は反主流派とか無頼に惹かれる傾向があるようだ。

 NHKの大河ドラマ『真田丸』が面白い。それも、主役を演ずる堺雅人ファンには申し訳ないが、真田信繁(幸村)よりも父親の昌幸が素晴らしく良い。演ずる草刈正雄ってこんなに上手かったかと思うくらいだ。まあ、脚本が三谷幸喜だからかなとも思うが、知略に長け、腕っぷしが強く、家来からの信頼も厚く、家族・女衆に見せる優しさが好ましく、いわば「男の中の男」といった感じの繁幸が前面に出ていた。しかし、武田に始まって北条、上杉、織田、徳川、豊臣と臣従関係を取り結ぶのだが、最後は失意の中、追放先の九度山で息を引き取る。智略・武略に長けててはいるものの、運が悪いのか、はたまた決断ミスなのか、戦略・戦術が裏目裏目に出てしまうところがなんとも歯がゆい。所詮は武闘派なのであろうか。何か自分にも通じるようなところが...。

 さて、話は変わるが、アメリカのシンクタンク『The Pew Global Attitudes Project』の調査によると、「自力で生活できない人を政府が助ける必要はない?」に対して、日本人の38%がYesと答え、アメリカの28%、中国の9%を超え、日本は世界で最も「弱者に冷たい国」ということが示されている。さらに、生活保護費がGDPに占める割合は、OECD加盟国平均が2.4%に対して、アメリカ3.7%、イギリス4.1%、ドイツ2.0%、フランス2.0%だが、日本は最低の0.3%に過ぎない。アメリカには悪いが、アメリカはそんなに寛大な国ではない。今だに人種差別はあるし、経済格差は日本の比ではないし、「優勝劣敗」思想が跋扈するお国柄だと思っている。そのアメリカにすら引けを取るような日本の悲しい現実がある。

 しかし、社会的弱者、経済弱者への謂われのない批判・罵倒がネット右翼のみならず政治家から公然と出、年金始め社会保障費の削減が当然のように語られ始めている。一方では、−「夢」なのか「感動」なのかを今一度味わいたい人が多いのか−東京五輪に向けて3兆円もの天こ盛りの予算を組んでいるらしい。何かおかしくないか?

 社会が寛大でなくなった時、人から寛大さが失われた時、その社会はあるいはその人は、果たして信頼に足る存在であり続けられるのだろうか? 弱者をはじき飛ばすことが当たり前だと思っている日本は、かの総理が言う「美しい日本」でもなんでもない、取り戻すべきは「強い日本」ではなく「寛大な日本」だと思う。

 ところで、「意見を言おうと言うまいと、国民は常に指導者たちの意のままになるものだ。簡単なことだ。自分達が外国から攻撃されていると説明するだけでいい。そして、平和主義者については、彼らは愛国心がなく国家を危険に晒す人々だと公然と非難すればいいだけのことだ。この方法はどの国でも同じように通用するものだ。」とは、ナチスドイツの最高幹部だったゲーリングの言葉だ。
 「テロとの断固たる戦い」、「中国の脅威」、「積極的平和主義」と叫びながら、憲法9条を更に拡大解釈し、集団的自衛権を法制化し、海外に武装自衛隊を派遣し、さらには憲法そのもを根底から変えようとする現在の流れに、そして、それに危惧を抱くものに「反日」のレッテルが貼られるような日本の現実に、「繰り返される歴史」の危機を感じるのは自分だけだろうか?

 寛大でない社会はまた単純な言葉と力で物事を解決しようとする社会だ。願わくは、心ある国民が、この悲しい忌まわしい現実を直視し、Noという声を上げてくれんことを。

今、燃えている
2016/07/06

 東京大学、かつて憧れ、とうとう入学が叶わなかった大学を本気で目指そうと思う。いや、流石に自分ではない。この第一ゼミナールである。人口30万弱の町で、毎年ほんの数名だけが東大に合格する現状は、一言で言えば、実に情けない。田舎だから仕方がないとは思わない。卑しくも受験屋としては「〜だから」と言い訳をしたくはない。本年9月1日から「東大特進ゼミ」を開講する。対象は、小学4年生から高校2年生とし、学年別でなく、あくまでも個別に東大合格対策を進めたいと思う。目標は、5年以内に10名以上の東大合格者を育てたい。石田清の30余年の受験屋人生の最後の戦いだと思っている。

 ところで、バングラデッシュの首都ダッカで、イスラム・テロリストによるむごい殺戮があった。日本人7名の尊い命が失われた。大志を抱いて、かの国の発展のために活躍していた方々だけに残念でならない。心からお悔やみ申し上げ、真言宗徒の一人として御成仏をお祈りしたい。

 言うまでもないが、テロリズムにもテロリストにも同調するつもりは全くない。非戦闘員たる民間人を犠牲にする行動に正義など断じてない。だが、日本人はたまたま居合わせて犠牲になったのではない。標的になったのである。なぜか?

 昨年1月、我が国総理は、エジプトで「イスラム国」対策のために、イラクやレバノンに2億ドルを支援することを約束した。難民支援、人道支援という名目が付けられてはいたが、「イスラム国の脅威を食い止めるため」、「イスラム国と闘う周辺各国に」とわざわざ強調した。総理はあまり常識のない方なので、戦争状態では、例え難民支援、人道支援でも後方支援として利敵行為とみなされることを知らなかったかもしれない。彼は、事実上、「イスラム国」に宣戦布告をしたのだ。

 その後、イスラム国で湯川遥菜、後藤健二さんが処刑されたが、残念ながら総理=政府は人名救済のための実効策を取ることはなかった。「テロには断じて屈しない」という総理の言辞があまりにも非情に聞こえたのは自分だけか? 今も、シリアでフリージャーナリストの安田純平さんが反政府ゲリラに拘束されているが、日本政府は完全に見捨ててしまった。「テロとの戦い」の犠牲はやむを得ないということなのだろう。

 宣戦布告をし、「断固たる戦い」をぶち上げた以上、これから起こることの責任はだれが負うのだ?いやしくも戦いであるからには、戦う覚悟、戦いの準備、当然起こる犠牲の覚悟が必要だろう。だが、しかし、一体誰がこんなことに同意したというのか? 国民は一度だって問われたこともないし、だから、覚悟も準備などしていない。だとすれば、残忍なテロリストの前に無防備・無垢な国民を曝け出すだけではないのか!? 総理が、戦前の軍国主義に憧れていることは承知しているし、日本の戦後を決定づけたポツダム宣言も読まないのに「戦後レジームからの脱却」を滔々と話すことも承知しているが、少なくとも、見通しもないのにいい気になって「戦い」を叫ぶ、この無責任極まる男に大事な生命など預けたくはない。(ついでに、この無責任総理は、国民の了解を得ることもなしに、株高を演出するために大事な年金基金の50%を株につぎ込んで、含み損を膨らませて、ケロッとしている。)

 恐らく、日本人が標的になるのはこれが最後ではないだろう。今も世界のどこかで、ひょっとしたらこの日本のどこかで密かに狙われているかもしれない。我が総理はそれを持っていて、それを口実に、十分な議論もなく制定された安保法の適用と軍備・警備力の増強、日米軍事同盟のさらなる深化を進めるのではないかという危惧を捨て去ることはできない。

 本来日本と無縁な事情で始められたアラブと西欧の戦いに日本がしゃしゃり出る云われはない。国際貢献とは、一方に加担し戦争を激化させることではない。黙って見ている、乞われたら仲裁に入るが一方に与しない、これまで通りの平等な経済援助をしその国の発展に寄与する、これこそが長年に渡って積み上げてきた日本に相応しい国際貢献であろう。勇ましく戦いをぶち上げ、国民の生命・財産を守るなどと大声を張り上げるが、結果は、国民の生命を危うくするだけの現政権は大いに疑問だし、御免蒙りたい。

「保守」の自分
2016/06/13

 多分、自分は保守だと思う。日本の伝統や風土に根差した文化がとても好きだ。だから、経済、政治はおろか、文化・教育まで土足で入り込んできてアメリカナイズを迫るTPPなどとんでもないと思ってしまう。
 地震国日本にも関わらず、大量に作られ、生活の安全を脅かし、自然を侵食する原発は即座に撤廃すべきだと思う。
 原発を落とし無垢な市民を虐殺した当の国の大統領が、一片の謝罪も反省もなく、「雲ひとつない晴れた朝、空から死が舞い降り、世界を変えた。」などと己の美辞麗句に酔いしれる様を「歴史的」などとは微塵も思わない。
 「日本を守ってやっている」と強弁するが、実はアメリカの世界軍事戦略に編み込んだ沖縄の米軍基地を、そして、あの美しい沖縄の海を汚す米軍基地を、長年にわたって、罪もない婦女子に狼藉を働く元凶の米軍基地を好ましいとは決して思えない。まして、そのアメリカの言いなりになっている我が国の歴代政権を支持する気には到底なれない。
 自分の経済政策の失敗を、他国の経済環境のせいにして強弁し、各国首脳のひんしゅくを買ったり、「新しい判断」などと言って公約違反を誤魔化す首相に拍手する気などさらさらない。日本は、卑怯であること最大の恥にしてきた。

 おそらく、これまでの国家の権力者が制定した法や決め事の中で最も秀逸なのは、聖徳太子が制定した「十七条の憲法」ではなかろうか。全文はかなり長く、各条の初めの部分だけを取り上げることが多いのだが、それでも真に素晴らしく、日本人の心が生きているように思う。

 「一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し〜」
 これが日本人の共同体における基本的な思いであろう。「テロとの断固たる戦い」などと粋がって一方に加担し、軍隊を差し向けようとするのではなく、まずは黙って見ている、依頼があった時には躊躇なく仲裁するのが良策ではなかろうか。

 「二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。〜」
 自分のように真言宗に帰依している者にとっては至極自然なのだが、無神論者ばかりの今の時代、何か己の信じるものを求めることが必要ではなかろうか。己を絶対化し、傍若無人に振る舞う政治家諸氏こそ肝に銘じていい条文だと思う。

 役人に対しても、とにかく民衆のために働け、民衆を酷使してはいけない、悪いことしたら処罰する、などと良いことが書かれている。

 各条文とも秀逸なのだが、次の条文は今の時代だからこそ光を放っている気がする。

 「九に曰く、信は是義の本なり。〜」
 しかし、「信無くば立たず」などと、どこかの国の首相になどに言って欲しくない。

 「 十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。〜」
 自戒としている。古来、「不瞋恚(ふしんに)」と言って、過大に怒ることなく、寛容の精神を持つことを美徳としてきたのが我が日本人だった。

 つくづく、自分は保守だと思う。ただし、いわゆる右翼ではない。保守の自分は、政治家、マスコミ、評論家の今の状態をとても好きになれない。

珍しく日記が続く
2016/05/27

 歴史は繰り返すという。
 世は上げて「グローバリゼーション」、それ英語だ、やれダンスだと小学生から仕込み始めた。大学入試だって、英語は読む・書く・聞く・話す4機能の全てを盛り込んで近く実施されることになっている。同盟を組んでやる戦争だったら構わないんじゃないか、と簡単に「戦争法案」を可決し実施する。どうも、日本だけの判断で動いているのではなく、どうやら陰に陽に背後からの大きな力が働いているようだ。

 時代は、さかのぼって明治維新。明治新政府は国作りの根幹として「富国強兵」を進めた。一方では、西洋の科学技術導入のための翻訳の隆盛、果ては鹿鳴館を作り盛んにダンスに興じる「文明開化=脱亜入欧」。

 何か似ている、いや、やはり歴史が繰り返される思いがする。
 明治維新の立役者は薩長の尊皇開国の若き獅子たちや坂本龍馬となっているが、実は裏で絵を描き、彼らを自由自在に操ったのは世界の大富豪=イギリスのロスチャイルドだったというのは今や定説だ。東インド会社を経営するロスチャイルドは、インド産のアヘンを清国に売りつけ大もうけ、断られると今度は武力で清国をねじ伏せさらにアヘンを売りさばく。これが有名なアヘン戦争だ。食料、雑貨だけではなく武器を世界に向かって盛んに売り歩き、笑いが止まらないほどの財をなしたのがロスチャイルド。

 TPPの向こうにあるのは日本の産業、社会構造の一大変革,「グローバル化」の下での教育改革は国家と産業に奉仕するように大学と教育を転換することだろうし、「中国の脅威」、「テロとの戦い」を大義名分に進む軍備増強・同盟関係の強化は、やはり、誰かが背後で策を練り、誰かが忠実にそれを実行しようとしているのではなかろうか。

 やはり、歴史は形が変わり、役者が変わっても、忠実に繰り返される。実に憂鬱な昨今である。

こんなオリンピックなんか
2016/05/25

 自分は「現代」オリンピックの廃止論者である。ナチスドイツの格好の宣伝・国威発揚の舞台となった1936年「ベルリン・オリンピック」の時に、実は「近代」オリンピックは死滅したのだと思う。それでも、その後しばらくは、近代オリンピックの父クーベルタン男爵の提唱したアマチュアリズムは形の上では継承されたものの、旧ソ連はじめとする社会主義国の「国家丸抱え方式」が果たしてアマチュアリズムと言えるのかが疑問視された。これに対抗して欧米主導のプロ選手のオリンピック参加待望論が台頭し、1980年のサマランチのIOC会長就任を契機に、ついに1984年の冬期サラエボ五輪、ロス五輪でのプロ参加の是認となった。ここで、「近代」オリンピック=アマチュアリズム五輪は完全に終焉してといってよい。以降、オリンピックは回を追うごとに露骨なまでの商業主義が跋扈する。

 新国立競技場、五輪エンブレムのすったもんだ、最近になって露見したオリンピック招致委員会の裏工作のための2億3000万円疑惑など、そこまでしても招致し開催しなければならないのはなぜか? そこには、単にスポーツの祭典ではなく、およそ純粋スポーツとはかけ離れた利権・欲得が蠢いているからだろう。

 「汚染の影響は福島第1原発の港湾内0.3平方キロメートルの範囲内で完全に遮断されている」、だからオリンピックは安全・安心だ、と真っ赤な嘘を世界に向けて公言した我が国総理。オリンピックのためと称し、多額の税金を惜しげもなく海外視察旅行につぎ込んだ石原、猪瀬、舛添の歴代東京都知事。五輪に絡む政治・政治家の劣化・醜悪さは、五輪の劣化そのものでもある。

 2020年の東京五輪招致・開催の経済効果はこうだ、あーだ、と自称専門家がはじき出す数字を見て、豊かになる自分を想像できる人はまずいない。大手ゼネコン、大手不動産屋、大手観光業者など、そしてそれに群がる政治家を別にすればだが。また、東日本大震災の復興に伴う資材不足、人手不足、だから、資材・人手の価格高騰は深刻だが、東京五輪関連の工事がさらに拍車をかけるだろう。熊本大震災の復興に一体いかほどが回されるのだろうか。復興がままならない東日本と九州の方々を犠牲にするオリンピックなど、一体いかほどの意味があるというのだ!

 今からでも遅くない、2020年東京五輪を返上すべきだ。さらに進んで、商業主義に汚染され、利権うごめく五輪そのものを廃止すべきだ。少なくとも我が国は、冬季五輪も含めてこの馬鹿げた招致合戦からは永久に撤退すべきだろう。

熊本大震災に思う
2016/04/25

 「喉元過ぎれば熱さを忘れる」には、ある種の長閑さ、楽観さが感じられるが、反面、極めて無責任な、逃避的な態度でもある。

 我々は、1995年阪神淡路大震災、2004年新潟沖大地震災、2011年東日本大震災、そして今回の熊本大震災とこの20年余の間に、4つの大震災を経験し、多くの犠牲者を出してきた。自治体、自衛隊、警察、消防がそれぞれの立場で救援活動をし出来るだけ多くの命を救い、まだ可能な限りのご遺体の回収に努めた。避難場所・食料・水なども遅れや不足も指摘されたが、また、被災者の健康管理も問題とされたが、災害発生時点といては、緊急的には、おそらくはできる限りのことをしてきたように思える。何よりも、忍耐心があり、控えめで、他人への思いやりもある日本人の気質が、大きなパニックを引き起こすことなく災害に対処出来たのではないだろうか。だが、それを良いことに、国も自治体、関係当局は、救援活動、そして、防災活に対して日頃から十分な計画と対策を取ってきたかと言えば、残念ながらそうではないように思う。
 
 簡単な話、もし、今我々の住んでいる町に震度7クラスの地震が起こったとしよう。まず何をする? どこに逃げる? 何を持って? 飼っているペットはどうするり? 体の不自由な人をどうする? 怪我をしたらどうする? こんな単純だが大事なことに、我々は即座に反応出来るだろうか? また、国や自治体は日頃から即座な対処の情報・指示を我々に伝えているだろうか? おそらくそうではないだろう。
 また、我々の住むむ町、住居が地震、津波、台風などの災害に強い、あるいはどの程度ならば耐えられるかという認識をほぼ全員が持っていない。ここでも、国・自治体からは十分な情報提供はないし、情報すら持ち合わせてないように思える。
 要するに、我々は災害に対してはあまりにも無防備なまま毎日の生活を営んでいるのだ。フランスの報道関係者が不思議そうに日本の報道関係者に尋ねたそうだ。「この断層だらけ、地震だらけの日本の国土によく50もの原発を抱えているのはなぜだ?」と。もっともな疑問だ。我々は、大災害の度に、被災地と被災者に思いを馳せ、心から同情し、寄付活動や現地でのボランティア活動はするけれども、それはとても素晴らしいことには違いはないけれども、上から下まで「喉元過ぎれば熱さを忘れ」、災害など自分の町には起こらないのだということを根拠無く思い、あるいは災害に無自覚に毎日を過ごしているのだ。

 今こそ、真剣に防災を考えるべきだ。まずは原発を止め、二度と運転しない、やがては廃炉にすべきだ。地震大国、津波大国日本に原発は不向きだ。福島の悲劇は、「想定外」だったから起きたのではない。そもそも、大自然に向かってその動きを完全に「想定」できるほど我々は進んではいない。「想定」などとは、浅はかな人間の傲慢以外の何物でもない。この5年間、原発なしで我々はやってこられた。経済活動云々も結構だが、まずは生きなければならない。

 次に、自治体レベルで防災機関を常設し、地域の自然災害への耐性の研究と、災害に強い町づくりの計画・立案、各震災レベルでの避難と復帰までの全プロセスの研究・立案、国その他の機関との合同での防災体制と態勢、必要な予算、人員などおよそ考え得る防災計画の計画・立案を行い、災害発生時には直ちに救済・救援活動の中核として機能出来るような組織とすべきである。愚にもつかないような、出来もしないような公約ではなく、有効で実行可能な防災計画と町づくりを掲げる政治家っていないものか!?

 最後に、我々一人一人が、防災意識を持ち、いざという時には、できるだけ自力で自らを守り、他者と協力して災害に立ち向かう「町内防災団」を考慮する必要があるのではないだろうか。

 災害には、「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」位の用心さと臆病さがあってちょうど良いのだ。

前期日程入試の日に
2016/02/25

 弘法大師空海はまだ生きているという。今も生きて禅定(深い瞑想)を続けているという。「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」(全ての生きとし生けるものが幸せになるまで、私は祈り続けます。)とお祈りを続けているという。
 ずっと荒唐無稽な作り話だと思ってきた。そもそも、若い時分から、宗教そのものに懐疑的であるというより忌み嫌っていた自分であるから、こんな類いの話は聞く耳など持っていなかった。

 それが、10年と少し前に、たまたま唐招提寺の鑑真和上の乾漆像と出会ったのを機にコペルニクス的な転向をしてしまった。芭蕉がかの像を前にして詠んだ「若葉して 御目の雫 ぬぐはばや」(青々とした柔らかい若葉で、盲目の鑑真上人の御目もとの雫を、ぬぐってさしあげたい )。芭蕉は、朝廷より招かれて、数度の航海を試みる中で、潮水で視力を無くしたにも関わらず、仏教の戒律を立て直すことに奔走し、挙げ句の果てに捨てられた鑑真への同情を詠んだはずだ。だが、自分は芭蕉とは違った思いに囚われたのだ。「鑑真は泣いてなどいない、悲しんでもいない、僧侶の中国最高位を捨て来日したことへの後悔など無い、そのすべてを超えた無私・無心のお顔だ」と感じたのだ。

 それからというもの、あれだけ嫌だった神社仏閣参りがむしろ楽しみになってしまった。旅行の度に、曹洞宗、臨済宗のお寺、浄土真宗、天台宗のお寺に参った。奈良の法隆寺、東大寺、興福寺など、そして式年遷宮の伊勢神宮、出雲大社も参詣した。仏教だけではない、キリスト教の寺院、聖堂にも出かけた。ミラノでは大聖堂の中で聴いた賛美歌に涙を流してしまった。仏像には足を止め、特に不動明王像に魅了された。

 今では、空海に惹かれ真言宗に帰依している。とはいってもどんな宗派でも、例えキリスト教でも受け入れる真言宗であるから、自分も他宗派には寛大だと思っている。高野山の奥の院には大小20万基といわれるお墓があるが、信長、秀吉は言うに及ばず、互いに殺し合った戦国武将の墓が仲良く並んでいる。キリスト者のお墓があり、外国人のお墓も鎮座している。
 その奥の院、「御廟の橋」を渡り、石段を登ると、千年近く燃え続けていると言われる二つの「消えずの火」がある「燈籠堂(とうろうどう)」があり、その地下に弘法大師空海が禅定している御廟ある。何度かお参りし、手を合わせているが、空海さんは、少なくとも自分には、今なおそこにいらっしゃるように思える。

 今日は、国公立大学前期日程入試。朝、我が家の神棚、仏壇に向かい、全員の合格を祈願させて頂いた。

新年に当たっての夢
2016/01/04

  年が改まった。雪のない、寒くもない穏やかな正月を過ごさせてもらった。もっとも、ここが受験屋の悲しさで、我が受験生諸君は年末年始も変わらず頑張ってくれているかなあ、インフルに罹ってはいないだろうな、などと頭の中はいつもと同じ。さすがに、数学を解こうとは思わないが。

 2020年度を目途に大学入試制度が大きく変わろうとしている。センター試験が廃止され、主に推薦入試で考慮される「高校基礎学力テスト」とセンター試験の後継とも言うべき「大学入学希望者学力評価テスト」が、年に複数回実施されるという。これまでのマーク方式から記述式が多く取り入れる他、英語と国語の融合など教科を横断した「合教科・科目型」ないしは「総合型」入試も検討されている。
 特に、単に知識を問うだけでなく、知識を活用しての「問題発見・問題解決型」の問題が考慮されているという。特に英語は、「読む、聞く、書く、話す」の四技能すべてが対象となり、パソコンあるいはタブレットに向かって解答するIBT(インターネット活用によるテスト)が導入されることが取りざたされている。
 予定では、現在の小学6年生からこの新テストの洗礼を受けることになっている。

 さて、この新テストは、構想が公表された当時は詳細が不明なこともあって、実施に疑問の声が多く、構想そのものに懐疑的な声が多く聞かれたように思うが、この所概ね好意的な意見が多数になってきている。曰く、「安倍内閣はロクなことをしてこなかったが、この新テストだけはまともじゃないか」などと。
 ビジネスの世界では盛んに取り上げられる「問題発見・解決能力」などのフレーズが教育現場には新鮮だったのか、あるいは、英語重視の姿勢が「グローバルな時代」に真にふさわしいと受け止められたかは分からないが、この新テストは、ともかく徐々に各方面に浸透し始めている感がある。

 自分は、共通一次試験が導入された時も、それがセンター試験に変わった時も、試験制度の変更には反対であった。共通一次試験導入の理由は、それまでの大学入試には「難問や奇問」が多い、だった。背景には、一握りのエリート予備軍が独占していた大学の裾野を広げよう、いわば「大学の大衆化=質の高い労働力の確保」という目論見があったはずだ。この間に大学の進学率は二倍以上になり、制度変更の目的は多分達成された。だが、「まともに勉強しなくても」推薦入試でポンポン合格者が生まれ、数V・物理を履修しなくても工学部に進学できるなど、大学入学者の全体としての劣化は明らかだった。大学の研究・教育の質の低下につながるだろう。大学の研究キョーイチ(共通一次試験)の時にすでに大学の将来を憂慮する声はあった。自分もそうだった。

 「人、物、金、情報」はすでに自由に国境を越え、グローバリゼーションと言う名の、実は「アメリカンスタンダード」が我が物顔に世界中を闊歩し始めた。TPP発効により、ますます各国のアメリカ化は進むであろう。2020年度の新テスト導入は、一面ではこの動きと連動しているはずだ。新テストに好意的な評価もまたグローバリゼーション歓迎から生まれている。

 この新テストは日本の大学のあり方を根本から変えるだろう。自分には、あの明治の「富国強兵」戦略を担う国家エリートの教育を狙った帝国大学が重なって見える。事実、新テスト構想は、大学をグローバル大学、職業訓練大学、地域貢献大学に三分化する構想と一体をなしている。新テストをクリアする力を持った一握りの受験生だけが、最高位のグローバル大学に進学しうる。新大学からは文学、哲学、芸術、教育などの文系分野に重きはない。「富」を生まないからだ。大学は、国家の富のためにこそ貢献すべきだ。これこそ新テスト導入の根幹をなしている。

 また、この新テストは、今でも明らかな中央と地方の学力の格差、富裕層とそうでない層との学力の格差を押し広げるだろう。一握りのエリート予備軍は、中央から、富裕層から生み出されるに違いない。予想される問題の記述対策、論文対策、英語対策には多くのカネとヒトとモノ(設備)が必要だ。地方のどこにそれがあるというのだろう。富裕層にとってはおそらく大歓迎に違いない。結果は目に見えている。キョーイチで否定した「難問・奇問」を解くスキルを身につけた一握りのエリートたちと同種の軍団、ただし今度は国家的役割を自覚した者が闊歩するに違いない。冗談ではない、大学は自由な研究と教育の場であって、国家目標の下にあるのではない!

 しかし、自分は受験屋である。例え受験制度がどう変わろうとも、大学がどのようになろうとも、国家の要請とは別の意味で、このグローバル化が避け得ない世界で、自由な意志で己の知識と才能、能力を発揮せんとする若者を、まずはその一歩たる大学受験から生み出したいと思っている。それも、今後30年で人口の半減が言われ始めたこの北海道函館の街から挑戦したいと思っている。「サムライの心を持って英語を話す」という表現が妥当かどうかは分からないが、「アメリカンスタンダード」に流されない強い意識を持った真の国際人をこの手で育てたいと願う。

あくまでも沖縄の海は美しい
2015/11/06

 雪虫が舞ってから3週間近くなったろうか、初雪近ということで大慌てで冬タイヤに交換した人が多かったのだが、このところポカポカ陽気が続き、少しは秋を愛でる気持ちになっている。
 この度、東進の主催する月間向上得点マラソンで、弊社が運営する函館ラ・サール学園前校が全国第一位になるという大変名誉な結果を頂いた。向上得点は、生徒が講座を受講した後の確認テスト(復習テスト)、修了判定テスト(実力テスト)に合格した場合、あるいは、英単語や英熟語の完全習得、数学計算演習などの単元に合格した場合に、その程度に応じて付与される得点で、その多寡が生徒の勉強の度合いを示す指標となっているものだ。だから、函館ラ・サール学園前校の生徒は、10月度は東進にある全国千校余りの校舎の中で最もよく勉強したことになったのだ。寮生が多く、他の東進生のように自宅受講などができない中での全国のトップなのだから、本当に素晴らしいことだと思う。生徒の頑張りに心から敬意を表したい。

 一度だけ沖縄に行ったことがある。やはり澄み切った海の美しさに感動した。沖縄の海の美しさにはサンゴが関係しているらしい。サンゴ礁が砕けてできた白い砂浜が遠方まで続き、光が反射して海が透き通って見えるのだそうだ。さらに、サンゴは光合成で水中の二酸化炭素を吸って酸素を放出し、同時にミネラルも放出することで海が浄化されているのだそうだ。あの海は何時間眺めていても飽きることはないほどの美しさと穏やかさを持っている。気高いと言ってもいいくらいだ。

 その美しい海に、こともあろうに米軍の基地が作られようとしている。杭が情け容赦もなく珊瑚礁に打ち込まれていく。穏やかさが喧噪に変わっていこうとしている。気高さが殺伐さに打ち消されようとしている。それも、「本土」の手によって。
 17世紀初頭に、薩摩藩が3千の兵で琉球に侵攻し、薩摩の属国にしたのが最初の「琉球処分」、それから三百年後に明治政府が廃藩置県により薩摩から取り上げたのが二番目の「琉球処分」、1972年に米軍統治下の沖縄を本土復帰させたのが三番目の「琉球処分」、琉球=沖縄は自らの積極的な意思とは無関係に、「本土」の思惑でその運命を余儀なくされてきた。1945年3月の米軍による沖縄攻撃は凄惨を極めた。「本土」決戦の時間稼ぎのための防波堤とされた沖縄に米軍が殺到し、約10万人の民間人を含む約20万人が犠牲となった。そればかりではない、沖縄を占領した米軍は、住人を銃で威嚇し追い払いそこに広大な基地をいくつも作った。「沖縄に基地があるのではない、基地の中に沖縄あるのだ」とさえ言われてきた。

 そして、アメリカの世界戦略に編み込まれる中での「本土復帰」を向かえる。基地の撤廃・軽減が言われたが、ほとんど実現されることなく、今度は普天間の「危険度」を理由に海兵隊の最新基地を辺野古に作るという。ここでも沖縄県民の意思は無視される。三番目の「琉球処分」は、今なお、否、これからも続こうとしている。

安達君のこと
2015/08/08

 安達君は松岡修造ばりに熱い男だ。志が高く、いつも夢を追ってそれを叶える男だ。青学時代、帰省しては後輩に学生生活を語り、目指すことの大切さを語ってきた。社会人になってからも、忙しい合間を縫って、2,3年ごとに後輩のための講演を引き受けてくれる。「夢の力」を本当に熱く語ってくれる。「夢を持ちなさい、そして、その夢を持ち続けなさい、必ず夢は実現します。」と。自分も生徒たちも中からこみ上げてくる不思議な力を感じる。今回も素晴らしい講演だった。

 安達君は今年36歳だ。青学に進んだものの「超就職氷河期」でシュウカツは大変だったと思う。だが、用意周到な彼は、足で100以上の企業を回り、大人気企業の電通はじめいくつかの企業から内定を得た。彼が選んだのは松下電器(現在のパナソニック)だった。海外に飛び出したい、そして、「世界一のビジネスマン」になりたいという彼らしい選択だった。 

 入社当初から海外出張を繰り返し、韓国だけでも110回にも及んだ。その後、かねてからの希望である海外勤務を果たし、フランクフルトで2年、パリで1年間、とにかくパナソニック製品を売りまくった。その間、オーストラリアでMBA(経営管理学修士号)を取得した。彼はとても勤勉な男である。

 一流の営業マンとして成功した彼が次に目指したのは「経営」だった。「世界一のビジネスマン」から「世界一のエグゼクティブ」への新たな夢を抱き、大いに惜しまれながらパナソニック社を去った。次の戦場は、かのユニクロを展開するファーストリレイリングだった。彼は、わずか1年半で、会長直轄の「事業経営支援部」のリーダーとなった。ニューヨーク、モスクワ、パリ、相変わらず彼は世界を飛び回る。得意の英語を駆使して。
 安達君の言行はたくさんの後輩たちに勇気を与え、彼に続く人材を生み出している。受験屋などというしがない仕事をしている自分だが、教え子たちが各分野で活躍する姿を見聞きするのは望外の幸せである。今度会ったときの安達君はどんな夢を持っているだろうか。

高野山にお参り
2015/06/01

 ずいぶん長い間ご無沙汰してしまった。何度か書きかけたのだが、受験の忙しさと募集の慌ただしさで中断し、載せることができなかった。ま、言い訳だが。

 良い季節になった。北海道の今の季節は何もかもが素晴らしい。春の実感にほんの少しの初夏の気配、気分が高揚するでもなく何か穏やかになれそうな感じがとても良い。

 先日、開基1200年で賑わう高野山に出かけた。真言宗徒ではあるが、聖地である高野山=金剛峯寺参りは初めてだった。我が受験生のために合格祈願をしようと思い立ったのだ。
 高野山の中心となる壇場伽藍では、金堂の秘仏で今回初めて開帳となる薬師如来像にお会い出来た。これ以降開帳予定はないそうだから、良い時に来たものだ。また、根本大塔では、宗祖たる弘法大師空海の手による立体曼荼羅の世界=宇宙の迫力・迫真に驚嘆し、言葉も発せず、涙がこぼれそうになった。当日は、お大師様がご入定(にゅうじょう)なさった日であったので、法会が盛大に執り行われていたせいもあり、人、人、また人であった。
 有名な奥之院にも参拝した。手を合わせて「一の橋」を渡り、約2キロ先の「御廟の橋」に至る、ここから先はお大師様の御廟の霊域とされ、写真撮影、私語、飲食、帽子すべてが禁止、往きも戻りも合掌しなければならない。正面に灯籠堂があり、この日は法会の読経が続いていた。お堂を巡ると裏手が、今なお空海が生きて、一切衆生のために修行していると信じられている御廟がある。「南無大師遍照金剛」と合掌し祈願する。

 かつての無神論者も受験界に身を置き、切った張ったを繰り返すうちに、人智を越えたものを実感するようになった。今では、神棚、仏壇に頭(こうべ)を垂れる毎日である。

 さて、物騒な時代に入ったものだ。どうこじつけても憲法前文、第九条からは交戦権はもちろん戦争支援などあり得るはずもない。戦後レジーム(体制)からの脱却を目指すアベ総理が、戦後の出発点とも言える「ポツダム宣言」を読んだこともないことが暴露されたが、このような浅はかな人間が自衛隊の最高司令官となって「戦う」体制を作るというのだから、国民もずいぶん嘗められたものだ。
70年安保以来、大学生は「物わかりのいい」体制派になった感がある。どうだろう、今進められている「戦争ができる日本」の是非をよく議論して、少しは元気を見せて欲しい。自称、他称「左翼」に限らず、心ある国民の冷静な判断に期待したい。

これからも難問かな
2015/02/01

 北海道の北東に低気圧が居座り、道東は猛吹雪が続く。函館に限れば今のところ暖冬だが、何しろ冬だ。まだ分からない。

 今年のセンター試験の新課程数学UBはきつかった。「7倍角」も驚きだが、ベクトルその他も厳しかった。二次試験の数学対策をしっかりやっている受験生は乗り切っただろうが、センター試験の標準問題対策だけを意識した、とりわけ文系受験生には過酷だった。
 英語は、コミュニケーションに関わる出題が印象に残った。英数共に、5年後のセンター試験廃止=新テスト施行をにらんだ試みに思える。新テスト、とりわけ、発展問題の「大学入学希望者学力評価テスト」は、成績を段階的に評価するため、優劣を明確につけるかなり難しい内容になるのではないか。我ら、予備校と大学を目指す高校生は心してかかるべきだ。

さて、「イスラム国」は、邦人二人を殺害し、日本人の更なる殺害まで予告してみせた。二人の長きに渡る死の恐怖、ご家族の心労と無念さはいかほどであったろうか。この虐殺はいかなる理由があろうと正当化されるものではない。

 二人の自己責任であるとし、殺害に冷淡な人もいるようだが、冗談ではない。渡航の目的が取材であろうが、観光であろうが、ビジネスであろうが、およそ日本国民は政府によって海外での安全を保護されることは「外務省設置法」にも明記されている。目的で左右されることなどないのだ。「救出に最善を尽くす」のは当然だ。

 むしろ責めを負うべきは、我が国政府の長たる安倍首相の言動だろう。安倍氏が日本の最高指導者であることを残念に思う。早くから、湯川氏や後藤氏の人質の事実、身代金交渉のなり行きの詳細を知りつつ、イスラエルの旗の前で「テロリスト=イスラム国」との戦いを強調し、エジプトのカイロでは、「イスラム国と戦う国」への2億ドルの援助を宣言する無神経さはまともなことか。二人が殺害されてもなお「テロリストへ罪を償わせる」と公言する無邪気さを恐れる。いくら人道支援を強調しようが、「イスラム国」への報復=宣戦布告ではないとは言わせない。米英の有志連合に加わって、戦争を支援するだけでなく、戦争そのものを始めることなど国民の多くは支持しまい。

 テロを支持する国民などいない。同時に、基本的にはキリスト教徒とイスラム教徒の十何世紀にも及ぶ戦い、オスマン帝国崩壊後の支配地域の分配を巡るイギリスの「三枚舌外交」による現代アラブの混乱に、「テロとの戦い」のスローガンの下積極的に加われという国民もいない。黙って見ている、どちらにも与しない、これこそ「積極的平和主義」であると知るべきだ。

 お二人のご冥福を心からお祈りする。

新年雑感
2015/01/02

年が改まった。お陰様で、穏やかな正月を過ごさせていただいている。 冬至から10日ほど経って、日の長さを少し感じるようになった。これから夏至までの半年間は長くなる一方だと、心が軽やかになるが、北国の寒さはこれからだと思い直してしまう。それにだ、センター試験がすぐあるじゃないか、私大入試、前期日程入試、それに・・・。

若い頃は、誰もそうかもしれないが、神社仏閣、仏像の類はご勘弁を、だった。神も仏も全否定だった。姿も形もなく、おまけに罪だ、罰だと言われると無性に反発したものだ。

50代になった頃、鑑真和上の乾漆像と対面した。かの芭蕉は、「若葉して 御眼の雫 ぬぐはばや」と、度重なる日本への船旅で盲目となった鑑真和上を詠んだ。慈愛に満ちた素晴らしい句だ。だが、自分はそうは思わなかった。鑑真像に悲しさはない、涙も見られない。中国随一の高僧を捨てた後悔もない。あるのは、怒りも悲しみもあらゆる負の感情を飲み込んだ、穏やかさと深い満足だと思った。思わず合掌した。何かが、自分の中で変わっていく気がした。

かつての無神論者は、今では弘法大師空海の世界に憧れる。我が受験生のためにお祈りをしようと思うようになった。毎朝、神棚、仏壇に向かって般若心経と幾つかのご真言を唱えるようになった。年をとっただけとは思えないのだが。

さて、教育の世界も大きく変わろうとしている。グローバル化の是非を問うこともなく、大学そのものが再編されようとしている。グローバリゼーションの世に役に立たない大学はやがて捨てられよう。効率、コストパフォーマンスが全面に押し出され、研究・教育が国家目標、ある政権の下で生き長らえざるを得ない状況は、果たして「改革」という名の進歩なのか? 受験屋風情の「田作の歯ぎしり」と思われようが、このにわかに「きな臭く」なりつつある社会で、少しは吠えてみたいと思う。

学力低下を憂う
2014/10/27

 我が日本ハムファイターズのCSでの驚異的な粘りには心から感服した。特に、ファイナル第6戦の0−4からの逆転勝利には鳥肌が立った。来年こそ、リーグ優勝と日本シリーズ優勝を期待したい。大谷、頑張れ!

 さて、センター試験の廃止=「大学入学希望者学力評価テスト」と「高校基礎学力テスト」の新規導入が本決まりの気配だ。自分は、しがない受験屋風情だが、今度のお上のやることには大反対である。

 「大学入学希望者学力評価テスト」(以下「評価テスト」と略す)は、現行のセンター試験に代わるテストで、結果を1点刻みの点数で示すのではなく、A,B,C、Dなど一定幅の段階評価とし、大学ごとの2次試験は面接や論文を重視するようにしなさい、ということらしい。「高校基礎学力テスト」(以下「基礎テスト」と略す)は高校での学習定着度をみるテストで、現在の高認試験(旧大検)程度の難易度にして、大学の一般入試には直接利用しないが、試験結果は推薦入試やアドミッション・オフィス(AO)入試の資料にしなさい、ということらしい。また、この二つのテストは、高2の秋、冬、高3の秋、冬の各2回ずつ実施し、得点の高い方を採用することになるらしい。

 おそらくは、アメリカのSATやACTという年間複数回受験できる統一テストと、大学独自のAO入試を夢想しているのだろうが、我々は、アメリカの試験制度を猿まねして大失敗した例を間近に見ている。アメリカの司法試験制度をほぼ猿まねしてスタートした司法医試験制度のさんざんたる失敗がそうだ。法科大学院の乱立、授業レベルの低さなどが原因で当初80−90%程度の合格率をと意気込んだものの、現在では20%台と低迷し、法科大学院の閉鎖、廃校の危機を抱えている。救済措置であった法科大学院を経ない試験による合格者が急増し、法科大学院の意義そのものに疑問が生じている。さらに、日本が、お上が想定したアメリカ型の「起訴社会」にはなっていない(日本人は争うことが嫌いだ)ことから弁護士の需要が増えず、急増した司法医試験合格者の多くは行き場がない有様なのだ。お上が「改革」を言うとき、まず失敗するものとみてよい。

 ところで、「基礎テスト」程度で受験生を受け入れる大学はいかなる大学か?無論、その大学に入学生をきちんと指導し、高度な知識を持たせて卒業させられえるシステムと能力・技術・教授陣がいるなら話は別だが、まず聞いたことはない。現在の推薦・AO入試合格者よりも程度が悪い生徒を大量に大学が引き受けて一体何をしようというのか?

 また、「評価テスト」だが、難易度は現行センター試験と変わらないらしい。ただし、1点刻みで評価する現行方式ではなくA,B,C,Dなど一定枠での評価することでいくつかの問題点が生まれる。まず、東大、京大、医学部など難関大学受験者のほぼ全員が段階Aに入り、ここでの差はつかないから、2次試験勝負となろう。それでは、難問・奇問が多いからという理由で導入された共通一次試験=センター試験は一体何だったんだ?また、面接、小論文を重視しろと言うが、企業の就職面接試験ですら問題を抱えているのに、大学の教授たちが果たして何千人もの受験生を限られた時間で人物評価できるのだろうか?そもそも、無口、口べたな受験生は正当に学問的な能力を評価してもらえるのだろうか?一体に理系受験生は文章表現が下手だが、小論文で公正、公平に判断することは現実的なのだろうか?

 さらに、この段階評価は新たな大学格差を生むだろう−−Aレベル大学、Bレベル大学、・・・・、最低レベル大学! まさか、文科省はこれを狙っているのではあるまい?

 そして、複数回の受験だ。なるほど一回の試験のミスを次の試験でカバーできるメリットはあるだろう。だが、高2の秋からの受験となると、高1の早い時期から受験対策が必要となり、大都市の「中高一貫」高校が圧倒的に優位になり地域間の格差がますます拡大するだろう。また、高校の部活、生徒会、ボランティアなどの行事、活動は明らかに停滞するだろう。もっとも、高校生にとにかく勉強させたい、部活などどうでもいいというのが趣旨ならば、何もセンター試験をいじることはなかろう。やろうと思えば他にいくらでも方策はあると思うからだ。

 今回の「改革」で予備校が繁盛するという批判もあるようだが、おそらくそうはならないだろうし、つくづく余計なお世話だと思う。この「改革」に伴う推薦枠、OA入試枠の拡大と易化は予備校・学習塾の役割を「Aランク大学」対策だけに限定してしまうだろう。旧大検レベルの「基礎テスト」に予備校など不要だからである。それはそれで良いし、予備校=悪者のレッテルを貼り続けてきた人は大喜びするだろうが、大学入学者の劣化こそ問題にされるべきだろう。

 自分は、センター試験すら反対である。1979年の共通一次の導入以来、何か一つでも良いことがあったか?寡聞にして、日本の高校生、大学生の質が向上した話など聞いたためしがない。生物はやったが、物理は習っていない。数Vなしで工学部に入学する、などなど仰天の連続だ。お上が余計なことに口を挟まず、各大学が独自の入試をやればいいのだ。有る大学は難問を課しても良いし、別の大学はそれこそ面接だけで決めたっていいのだ。要は、それぞれの大学がどんな学生を求めるのか、それをはっきりした上で、それに相応しい入学テストを行えば良いのだ。
 だが、多分、お上が決めた「評価テスト」、「基礎テスト」導入の流れは変わらないし、センター試験そのものの廃止もない。例えそうであっても、受験屋である自分は、受験生がある限り、彼らの学力の向上のために全力を尽くすだけである。
 

大沼は緑の中
2014/06/23

大沼はすべて緑の中にあった。目に染みるほど緑、また緑だった。
5月初旬に来たときは、あいにくの雨模様で駒ヶ岳が遠くに見えていたが、今回は間近で楽しむことが出来た。麓の緑と中腹の赤っぽい山肌、頂上付近の黒っぽさがよく似合う。

冷夏の予想
2014/06/19

 あと二日で夏至。NHKばりに言えば「6月21日は、二十四節気の一つ「夏至」です。一年のうちで最も昼が長い日で、きょうを境に次第に日脚が短くなっていきます。」といったところだ。この日から15日ごとの「小暑」、「大暑」を経て「立秋」となり暦の上では秋、もちろん8月8日で秋はないだろうから、次の「処暑」続く「白露」でやっと実際の秋を実感することになる。

 今年は「冷夏」との声が聞かれる。「エルニーニョ現象」のせいだという。遠く離れた太平洋赤道域付近から南米のペルー沿岸にかけての海面水温が高くなり、その状態が1年程度続く現象をいうのだが、これが日本の気候に与える影響が大きいのだそうだ。太平洋赤道域の東側の海面水温は上昇する、太平洋熱帯域の西側では海面水温が低下して対流活動が衰える。このせいで、太平洋高気圧の日本付近への張り出しが弱くなり、日本の夏の天候は低温、多雨、寡照となる傾向が生まれるのだそうだ。
 地球規模のスケールの大きな話ではあるが、5年前にもこのエルニーニョを原因とした冷夏を経験している。8月の平均気温が平年を0.8度ほど下回っただけなのだが、立派に冷夏の基準を満たし、それまで余りにも暑い夏が続いていたこともあって、冷夏の実感が強かったと見える。

 冷夏で得する人、損する人という区分けは不遜な感じはするが、比較的はっきりするだろう。我ら受験屋および受験生は冷夏歓迎派の筆頭だろう。猛暑と受験勉強ほど合わないものはない。エアコンが普及しているとはいえ、一歩もエアコン完備の勉強部屋から出ないというわけにはいくまい。まして、北海道はエアコンと無縁な建物がほとんど、しかも大のエアコン嫌いだって多い。自然の涼しさの中で勉強できるのはこの上なく効率が上がることは間違いない。

 だが、5年前は、米や野菜が低温、日照不足、大雨で育たず、豪雨、台風が頻発し各地で大きな被害が出た。今年もその再現が言われている。やはり、冷夏は困りものだ。だが、人がいかに願おうと、自然はその思惑などお構いなしに自己主張する。せめて、自然を超克したかのような傲慢さなど微塵も持たず、自然に抱かれ、自然の恵みで生かされている思いを持つことが必要なのではないだろうか。

お山にも春が
2014/05/12

休みで時間がとれるときには、東山山中の鏑射寺函館別院に参詣することが多い。3週間前に来たときには木蓮の花が満開だったが、今回は山桜がほぼ満開になっていた。木々の葉もだいぶ多くなり、木洩れ陽が心地よかった。小川の清涼な水音にしばし足を止めて聞き入ってしまった。

大覚寺にて
2014/05/08

ゴールデンウイーク真最中の大覚寺は不思議なくらい静寂だった。同じ嵯峨野でも、JR嵯峨嵐山駅を出て左に進む天龍寺、渡月橋に多くの観光客が向かい、もちろんトロッコ列車、保津峡は大盛況なのだ。お陰で、大覚寺では急かされることもなくゆったり時間を過ごすことができた。
大覚寺には三つの顔があるように思える。
一つは政治の顔。創建された平安時代初期には嵯峨天皇の離宮であった。鎌倉時代には、院政の御所となり、南北朝時代を経て南朝最後の天皇・後亀山天皇からから北朝の後小松天皇に「三種の神器」を引き継いだのも大覚寺だった。
一方、嵯峨天皇の盟友であり師でもあった弘法大師空海が、離宮に五代明王を御堂に安置し修法を行ったことから真言宗の布教の拠点となった。以後、真言宗大覚寺派の本山として現在に至っている。
三つ目は、文学・芸術の顔。「滝の音は絶えて久しくなりぬれど なこそ流れてなお聞こえけれ」は、嵯峨離宮の滝殿の石組み跡で歌人・藤原公任(きんとう)が詠んだものだ。さらに、狩野山楽が襖絵「四季耕作図」を描き、狩野永徳もまた「松に山鳥図」を描いた。「四季耕作図」は何故かアメリカに渡り、大覚寺で見られるのは複製である。

数年前、縁あって真言宗に惹かれ、真言宗ゆかりの寺院を訪ねることが多くなった。空海も舟遊びをしたという境内の大沢の池の畔に佇み、しばし千数百年の昔に思いを馳せた。嵯峨天皇と空海はここで何を語り合ったのだろうか。

 写真は、勅使門(おなごりの門)、狩野山楽の牡丹図(重要文化財)、大沢の池

合格祈願
2014/04/20

久しぶりに東山明の方の明芳寺をお参りした。本山は兵庫県三田の鏑射(かぶらい)寺、真言宗のお寺だ。明芳寺には数年前まで見事な不動明王像があったが、今は本山に移り、これまた見事な毘沙門天像が鎮座している。参道には、七つの観音様を祀るお堂が並んでいる。ひとつひとつをお参りし、本堂の前で不動明王と毘沙門天のご真言を唱える。我が校生徒の学力伸長、合格を祈願した次第だ。
写真左は本堂、中は参道から望む函館山、木立に隠れているがお分かり頂けると思う。右は、七つの観音堂。山にはまだ雪が残る。

春はいずこに?
2014/03/21

 変な3月だ。少しだけ降る雪を見て、ああ、なごり雪だなあ、なるほど心なしか風も優しいなどと思ったのも束の間、その後真冬並みの寒さに逆戻り。これを2度ほど繰り返した後、今日もまた吹雪に。一体いつになったら春を実感できるのだろうか。

 わが校の生徒たちには一足先に春がやってきた。合格のご挨拶にお見えになる保護者様と生徒の喜び溢れる様子に、この仕事をして本当に良かったと実感する。もっともこの時以外は苦闘の日々だが。

 ところで、あまりにも前政権がひどく、選挙で棚ぼた式に大勝利で政権をつかんだ現政権だが、露骨なまでの「右旋回」を始めた。反中国、反韓国・北朝鮮の国民的感情が醸成されつつあるのいいことに、集団的自衛権なる戦争準備を急ピッチで進め始めた。憲法9条の拡大解釈には政権党ですら反対があるにも関わらず、野党の弱腰を見込み、かつまたアベノミクスとやらの景気回復で国民にもまた反対し難い雰囲気があるのを見越し、閣議決定・国会議決を極めて強権的に推し進めている。

 沖縄滞在中に思った。太平洋戦争末期に、ここで当時の県民の4人に1人が犠牲になったが、一体誰のために?時の日本軍事政権は、本土決戦の準備のための時間稼ぎに、沖縄県民を犠牲にし、沖縄を焦土と化してしまったのだ。それでも沖縄の人たちは一様に優しかった。戦争の悲惨さと辛さを知る人ならではの優しさだった。
 政権党が進める集団的自衛権は、間違いなく沖縄の米軍基地を固定化するか、やがて国防軍となるであろう自衛隊がその肩代わりをするかのどっちかだろう。もちろん、本土もまた戦争の準備が、最初は徐々にやがて誰も止められない勢いで進められるだろう。アベ軍事坊ちゃん政権に鉄槌を、と思う人は少なからずいるであろう。富裕層、東京、大企業だけの見せかけの景気回復に騙されて、いつか来た道を歩まされるのだけはご免だ。

年の終わりに
2013/12/28

 ノブレス・オブリージュ(優れた者が負うべき義務)を掲げて31年の歳月が流れた。「ミーイズム」、「利己主義」、「唯金主義」が肯定的に語られることが多くなってきたこの時代に、ノブレス・オブリージュを声高に語ることは、時代錯誤やエリート主義とのそしりを免れないことでもあった。

 一介の受験屋に過ぎない自分が、学力の伸長=希望大学合格に留まらず、生徒に対して、やがて社会のリーダーとなるべき気概、組織成員を幸せにする義務、他者への寛大な精神を啓蒙することは、大いなる越権であったかもしれない。だが、幸い生徒の多くは「塾長の過激思想」を寛大に受け入れてくれたように思っている。大学を卒業し社会人となった我が学舎の卒業生の多くが、「社会貢献」を堂々と語ってくれることに望外の幸せを覚えてしまう。受験屋稼業の生涯現役を誓い、己なりのノブレス・オブリージュを果たす決意である。

 さて、この何年間、生活保護受給者、年越し派遣村などへのバッシングがあり、さらに、現政権下での特定秘密保護法、国家安全保障会議設置法の改訂、集団的自衛権の拡張解釈、果ては憲法改訂論の跋扈など、一方では社会的弱者の排除、他方では権力者の基盤強化への賛意など、ドイツ・ナチス党の台頭の時代に近似した状況が生まれつつある。弱者の差別と権力者への迎合こそ国家・社会の危機であることを今こそ自覚すべきではないか。

 ともあれ、今年も、生徒、保護者各位のご理解とご協力、高校関係者の温かいご支援、OB諸氏の激励に支えられて終えられそうである。心から感謝したい。年明けにはセンター試験が待っている。さらに、私大入試、前期日程入試と受験生には息もつけないほどの激戦が続く。負けてなぞいられない。春には合格の二文字が躍っていることを確信している。

本当に怒っている!
2013/12/03

 11月前半の初雪の後函館はいったんは白い世界となったのだが、その後たまに降るものの長くは続かず、今ではすっかり解けて少しぼんやりした師走を迎えたような気がする。

 特定秘密保護法はさしたる抵抗もなく衆院を通過した。愚かしいまでの政権運営の破綻で二つの国政選挙で国民から鉄槌を食らい、どん底まで突き落とされた民主党は何一つ見せ場を作ることもなく「恥を知れ」と罵るだけで法案通過を見送ったのだった。
 元々自民党の友軍である維新の会とみんなの党は与党にすり寄って法案修正なるものを得てどうにか存在をアピールし、他の野党もほとんど為すところなく法案の衆院の通過を許したのだった。与党幹事長たる石破某に至っては、「反対のデモはテロ行為」とうそぶき、余裕を持って恫喝してみせた。

 腰砕けの野党もそうだが、許しがたいのは我が三流・四流マスコミだろう。かつて異常なまでの反小沢一郎キャンペーンを張って、彼を政界の片隅に追いやったあの勢いを今回の法案に対しては見せることはなかった。「国民の知る権利」の侵害だ、新聞記者が逮捕される、と泣きを見せるのがせいぜいだった。もし彼らが真に「言論への許しがたい弾圧」だと思うなら、なぜ、社運を賭けた一大反対キャンペーンを張り、世論をして法案を破棄せしめるだけの一大国民運動を盛り上げようとしなかったのか! おそらくこの法案の成立とともに、日本のマスコミは最終的な死を迎えることになるだろう。だが、それは国民には大いなる不幸である!

 たかだか受験屋風情がその本分を離れてこの特定秘密保護法成立に危機感を抱くのは、この法律の本質は、同時に衆院を通過した国家安全保障会議設置法(日本版のNSC設置法)と並んで、日本をファシズムに導く悪法に他ならないからだ。
 軍事、外交、治安のほぼすべてを国民の知らないところで進め、干渉したものは遠慮なく弾圧していく、これは想像しただけでも震えが来る。戦犯たる祖父・岸信介に憧れる軍国お坊ちゃん=安倍首相が目指すのはアメリカを背後に従えた東アジアの覇者への道であろう。反中国、反北朝鮮、反韓国の機運は静かに我が国民の間にも浸透しつつある。ファシズムは為政者だけが進め得るのではなく、国民の暗黙の、時には公然たる支持があって始めてなしえるものだ。かつて合法的に政権を奪取しドイツ版ファシズムへの道をひた走ったヒットラーとナチスを想起せよ! 特定秘密保護法と国家安全保障会議設置法の衆院通過に断固抗議する!

伊豆大島の災害に思う
2013/10/19

 台風26号は、伊豆大島で19名の命を奪いその2倍もの行方不明者を生んだ。台風は自然にとってはごく普通の「熱交換」に過ぎないが、我らにとってはまさに猛威であろう。我らは、絶えず自然の”神秘”を解明しようとし、時には自然を利用し、時には自然と闘い、その過程において自然をあらかた克服したように錯覚してきたのではないだろうか。

 大島の町長が住民に避難勧告・命令を出さなかったことが非難されている。しかも台風が接近し異常な大雨が予測されている中で、副町長ともども出張で島を離れていたことも併せて攻撃され、避難マニュアルのあいまいさ、認識の甘さが一斉に指摘された。住民の生命・安全を真っ先に守らねばならない長として、この批判に関わらず慚愧に耐えない思いであろう。だが、一人を批判して済むほど伊豆大島で起こった出来事は軽くはない。

 オリンピック誘致成功で浮かれることに水を差すつもりはない。束の間の株高で思わぬ大金を手にして喜ぶ風潮をけなすつもりもない。だが、我々の命と生活の安全に関わる具体的な議論も、お金も棚に上げてのそれであれば話は別だ。自然はいつだって”想定外”である。自然に畏敬の念を持ちつつ、災害対策を何よりも優先して、技術も人力も財力も集中する必要があるのではないだろうか。

 閑話休題。伊勢神宮にお参りして本当によかったと思う。多少なりとも傲慢な自分が、少しは謙虚になれそうな気がする。無論、我が校の受験生の合格をご祈願させていただいた。

ヒトは自然を克服したか
2013/09/03

無力だと常に思うこと。
どうあがいても自然には到底叶わないと思うこと。
自分が工学の末席を汚すに過ぎなかったから言うわけではない。いわゆるゲリラ豪雨、竜巻、台風、地震、そして原発事故、一体何を持って人間の優位性を主張できようか。
自然災害の原因はわかっても、例えば、地震発生のメカニズムは分かっても、地震を防ぐことはできない。竜巻、台風もまた同じ。災害が起こった時どうするか、その後の我らの生活をどうするのか、繰り返し災害は起こっても、そして「教訓化」はその都度叫ばれても、何か前進したことがあったろうか。
確かに福島の原発事故は「自然災害」ではない。だが、原発の原理たる「放射性物質の核分裂」は、人間が自然を最大限利用する、いや、自然を制御しそれを超えるという、自然に対する人間の愚かなまでの傲慢さの結果ではなかったろうか。
決して真面目な学生ではなかったが、初めて原発の理論を知った時、その単純ながらもほとんど無限ともいえるエネルギーが得られる可能性に驚くと同時に、ほとんど同時に生まれるほとんど制御不可能な放射性物質及び核燃料の「ゴミ」への無邪気なばかりの楽観に驚かざるを得なかった。「人は未来永劫に原発を制御できない」、多分、原発創世記にそう思った人はどれだけいただろうか。
時代は巡って、今、福島。
昨年、時の権力者たる野田何某が原発の収束宣言をした時の驚きと憤りを思い出す。そして、新しい政権でもそれは変わらないばかりか、原発推進が威丈高に語られ始めた。福島原発事故は本質ではなく何かちょっとした間違い、多分それは東京電力という企業の怠慢だったからだ、それに、想定外の地震と津波のせいだ、ちゃんとやったら多分大丈夫だ。なるほど、だが自然はいつでも想定外だし、技術は常に後手であり、何より、放射能というパンドラの箱から出た「悪」を閉じ込められることができないことは、今も続き、間違いもなくこれからも続く福島原発の「汚染水」を巡る大混乱をみれば明らかだ。
ヒトは自然には敵わない。経済効率云々など主張することすらおこがましい。せめて、これを認め、自然に首(こうべ)を垂れて我らが進むべき道を探るべきではなかろうか。

夢のちから
2013/07/26

 我が第一ゼミナールOB会の会長である安達史紀(ふみのり)君を講師に迎えての講演会は大盛況だった。浪人生に加え夏期講習中の現役高校生も参加し、二階大教室は立錐の余地もないほどだった。
 北海道のベストイレブンになるほど打ち込んだサッカー三昧の有斗高校時代、そして当然ともいえる大学受験の失敗、猛勉強で知られる第一ゼミナールでの「カルチャーショック」寸前の浪人生活、その猛勉強の甲斐あっての青山学院大学・経営学部への合格、超が三つもつくほどの就職氷河期での松下電器産業(現パナソニック)への入社、「国際企業戦士」としてドイツ勤務とパリ勤務、そのひとつひとつを実に丁寧にしかも熱く語ってくれた。
 自分は、安達君を「石田学校の優等生」と呼んでいるが、「世界一のプロフェッショナルになって社会に貢献したいのです。」と言い切り、それに向かって努力を欠かさない彼は、自分をはるかに超える「優等生」に違いない。講演の最後に、「志を強く持てば、夢の力は君たちを導き、君たちの夢はは必ず実現する」と力説し、グローバルな時代を、よりグローバルな精神で駆け抜けていけと後輩たちを激励してくれた。この講演を聴いた後輩たちが第2、第3の安達君となって国内外で活躍する日がとても楽しみだ。

 さて、受験の天王山=夏、高校生は学園祭やら帰省やらでこのところかなり学習量が落ちている。全国の東進の中でも最も勉強する東進のひとつと言われる函館杉並校とラ・サール学園前校だ。天王山の戦いに必ず勝利するため、これからギリギリとネジを締め上げていきたい。

天王山で
2013/07/11

 この夏、我ら受験屋が好んで使う決め言葉といえば、「夏休みは受験の天王山」であろうか。夏休みの勉強次第で来年の大学入試の合否が決まる、といった意味なのだが、「天王山」は勝敗や運命の重大な分かれ目という意味で広く使われている。もっとも、近頃の「今でしょ!」に少し負けている気がするが・・・。
 
 この天王山だが、生徒の多くが意外と何なのかが分からない。「天皇の山」とか、「天の山(”う”はないらしい)」とか言って、それで納得している生徒もいた。関係あるはずの日本史選択の生徒の中にも「?・・・?」がいて、本人の名誉のために言うが、これで日本史の成績はかなり良いのだ。

 天王山は、京都府南部,大阪府との境にあたる標高270メートルほどの丘陵だ。古来、淀川水運や山陽道などの水陸交通の重要地点であったが、一躍有名になったのは、京都・本能寺で織田信長を討った明智光秀とその仇討ちを果たそうとする羽柴秀吉が戦った”山崎の戦い”であろう。1582年のこの戦いでは、天王山を制圧した者が勝者となり、天下を取ることになるとして「天下分け目の天王山」と言われた。
 敗走する光秀は、落ち武者狩りの土民に竹槍に刺されて絶命したといわれているが、力尽きて切腹して果てたとも言われている。一方、勝者秀吉は、「清洲会議」を経て信長の後継者として天下統一に向かった。いつの時代も勝者と敗者の落差はとてつもなく大きい。

 さて、受験の天王山の夏だが、わがシニアクラス・浪人生たちは、一日12時間学習に挑戦することになる。東進の学習バロメータである「向上得点」で、全国900校舎のベスト10の常連ではあるが、高く高く掲げた志望大学合格にはまだまだ不十分だ。日焼けして逞しくなるのではないが、逞しい学力を獲て、勝利を予感する秋を迎えて欲しい。
 また、このところ、これまた向上得点で全国ベスト10に入るなど伸長著しい高校生にも「天王山」を戦い抜いて欲しいと切に願う。

 ところで、日ハムの大谷選手のプロ第一号ホームランは本当に見事だった。うーん、「二刀流」、また迷いが出てしまう。

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