塾長日記

menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

久しぶりに野球談義
2007/07/16

 アメリカ大リーグ、シアトル・マリナーズのイチロー選手が、マリナーズ残留を決めた。契約期間が5年とはずいぶん長いが、報酬が109億円と聞いて驚いてしまう。もし、イチローがFA宣言をしていたら200億円も夢ではなかったというからなおさら驚きだ。シアトル市民に愛され、期待されていることを十分に知っているイチローにとって、FA宣言に伴う騒音・騒動は避けたかったのかもしれない。おそらくプロ選手最後の5年間となるだろうが、5年連続200本安打などさらなる活躍を期待したい。

 日本のプロ野球だが、日本ハムが好調だ。とりわけ凄い選手がいるわけではないと思うが、まとまりのとても良いチームだと思う。なによりも伸び伸びしたプレーが気持ちよい。
 楽天の新人・田中投手は期待通り、否、期待以上だ。弱小球団(失礼!)にいながらすでに7勝をあげ、そのうち3勝はソフトバンクからだ。三振奪取も100を超え、沢村賞も夢ではないと思う。日本ハム同様に応援したいと思う。
 対照的に、だめなのがジャイアンツ。この2週間、巨人ファンはいらいらしながら過ごしたのではなかろうか。故障した選手や疲労の投手のせいでもあろうが、原監督の采配には監督としての適性を疑ってしまうものがあった。あまりにも「動きすぎる」のだ。象徴的なのは、15日の広島戦7回裏の一死満塁での二岡交代であろう。前日までのゲームでチャンスで凡退したことが原因だろうが、それでも5番バッター、得点圏打率4割超えの二岡を今シーズン初打席の小関に替える理由などない。結果は最悪で、小関三振、その後豊田が打たれて巨人は負けたのだが、負け以上に巨人が負った傷は大きい。指揮官と選手の間に出来る溝、両者の自信の喪失を抱えながら戦うオールスター前の阪神戦は果たしてどうだろうか。日本を代表する球団の監督として、落ち着いた選手起用を見せて欲しいものだ。

 ところで、台風4号だが、7月の台風としては過去最大規模だそうだ。幸い北海道はあまり被害は出なかったが、本州、四国、九州では大きな被害が出た。やっと、台風が過ぎたと思ったら、今度は新潟で震度6の大地震だ。このふたつの天災で尊い命が失われ、負傷者も多く、家屋の損壊も多かった。「美しい国」を抽象的に語る前に、この地震と台風が不可避の日本の天災への対処がもっと議論されてもいいはずだ。
 

石倉先生逝く
2007/06/15

 敬愛する石倉邦彦(くにひこ)先生がお亡くなりになった。数学をこよなく愛し、片時も数学の書物を離すことなく、嬉々として生徒のための教材作りに励み、汗を滴らせながら教壇で数学を熱く語ったあの石倉先生が、こんなにも早く神に召されるとは!

 石倉先生との出会いは、先生が高校の進路指導部長であった16年前の春だった。浪人クラスの募集要項持ってご挨拶に伺ったのだが、昼食をとりながら(!)数学者・秋山仁(あきやまじん)の著書に向かう先生のお姿にまず驚かされてしまった。私が名乗ると、とても人なつこい笑顔をを見せて、「今、コーヒーを入れるから」と、ドリップ器具を取り出し、煎ったコーヒー豆の香りを楽しむかのように、ゆっくりとお湯を注ぐのであった。入れ立てのコーヒーを勧める時の笑顔に少しだけ恥ずかしさがあって、当時先生はお年は50歳を少し越えられていたが、自分にはとても新鮮に思われた。

 その後何度かお会いする機会があり、その都度先生の数学の造詣の深さに感心させられっぱなしだった。数学を語る先生の笑顔には、あのコーヒーを勧めてくれたときと同じ恥ずかしさが見えたが、輝いたお顔の表情から数学への慈しみの気持ちがいつも伝わってきた。いつしか、この方を私の先生にしようと勝手に思うようになっていた。

 高校を定年退職されてから一年後、先生から、「おい、お前の仕事を手伝うぞ。」と、うれしいお話をいただいた。もちろん異論があるはずもなく、それから7年に渡って共に教鞭をとってきた。先生は、生徒の力量を素早く的確に把握し、原則を守りながらも、時に回り道をする柔軟さを備えていた。演習プリントや宿題プリントなどの教材は常に入試傾向が反映されたものに仕上がっていた。「休まず、遅れず、正確に、誠実に、元気に」いつも背筋を伸ばし、堂々たる受業だった。−−「予備校は文化だ。その担い手である第一ゼミナールを北海道に根付かせるために、将来ある子供たちを大学生にするために俺はいつ死んでも良い。−−自分が勝手に師と仰いだ石倉先生の決意を聞いて、自分はどんなに奮い立ったことか!

 「全道ナンバーワンの数学=受験数学の王道の確立」の志半ばで先生は逝ってしまわれた。絶対に取り乱すまいと思ったが、先生のご遺体、お顔を拝見し不覚にも涙を止めることができなかった。

 自分の机の上に、生前先生からお預かりした「受業のための覚え書き」ノートが置かれている。几帳面な性格そのままの数字、記号、グラフ、そして、計算間違いなどありそうもないそのノートのページを繰ると、思わずこみ上げてくるものがある。ノートのページに先生の優しい笑顔が重なる。悲しみの涙は尽きないが、石倉先生とともに達成しようとしたことを,非力ながら残された我々が成し遂げていこうと、強く思った。かけがえのない我が師のご冥福を心からお祈りする次第だ。

K君のこと
2007/06/14

 昨晩、K君からうれしい電話がありました。就職の報告でした。

 K君は、第一ゼミナール浪人クラスのOBです。浪人時代のK君は、とてもまじめに勉強するのですが、いわゆる「スロー」タイプで、短時間で終える必要がある「英語小テスト」などではなかなか合格できませんでした。スピード勝負のセンター試験も彼には酷なところがあって、第一志望だった国公立は断念せざるを得ませんでした。

 ある私大の情報系に進学したK君は、スローながらも持ち前のまじめさと丁寧さで、大学での実験・レポート提出を精一杯がんばりました。比較的試験時間に余裕がある大学の定期試験も良い成績を上げることができました。「第一ゼミでがんばれたこと、塾長の言うことをなんとしてもやろうとした経験のせいで、大学での実験、レポート、テストを大変だと思ったことはありませんでした。」と、電話の向こうで明るく語ったK君。

 大学を卒業したK君がこの4月に就職した会社は、世界の「トヨタ」でした。入社後、電子関係部門のエンジニヤとしての訓練を受けているそうです。「今は、会社の上司、先輩から言われることでわからないことがたくさんあります。でも、第一ゼミ時代に、わからなくても頑張れた自信があって、元気に頑張っています。」とK君。「1年たったら新車を買う予定です。もちろんんトヨタ車です。」K君の声からは、苦しみながら頑張った人だけが持ち得る控えめな自信が感じられました。

自分のつらかった新入社員時代を思い返しながら、「大変だろうが、頑張れるか?」と聞いてみる。「大丈夫です。つらいとは思いません。」Kよう、本当にがん張ったな。ご苦労様。そして、入社おめでとう。「また電話します。帰省したら顔を出していいですか。」というK君に、そう伝えて目頭が熱くなってしまった。

はしかの流行に思う
2007/05/25

 大学生が「はしか」に集団感染したとして、首都圏の多くの大学が休講に追い込まれている。上智大、創価大、東京工科大、和光大、成蹊大、駒沢大、中央大、日本大が全学または一部学部の休講措置をとった。そして、早稲田大学も全学休講、学内の立ち入り禁止を決めた。約5万5000人に影響が出るという。特に、入学して日が浅い大学一年生は、とてもショックではなかろうか。

 「はしか」は、麻疹(はしか)ウイルスの感染で起こるが、感染力が強く、せき、目の充血、39〜40度の高熱と発疹と続き、気管支炎、肺炎、中耳炎、脳炎などを併発することもある恐ろしい病気で、日本では年間約50人がはしかで亡くなっている。

 子供の病気と思われていたはしかに、大学生始め若者が罹患(りかん)しているのは、15歳〜20歳のかなりの部分が、はしかなどの予防接種を受けていないからといわれている。接種適齢期(満1歳〜2歳)に、接種による副作用での死亡事故が多発したために接種を見合わせたからである。幸い死亡者は出ていないようである。このまま終焉に向かうことを祈る。

 ところで、ウイルスだが、おそらく今世紀はウイルスと人間の存亡を賭けた総力戦になるに違いない。
 人間であれ、動物であれ、それらが密集することにより、個体としてはウイルスへの抵抗力が落ちることが知られている。人が多数集まる都会や多くの鳥が飼育されるせまい鶏小屋は、寄生主がなければ存在できないウイルスにとって「弱った獲物」が大量に集まるまたとない「狩猟場」である。
 さらに悪いことに、あるウイルスに対するワクチンの接種により、他のウイルスへの抵抗力を弱めることが懸念されている。この免疫力の低下は、りわけ新種のウイルにとってはありがたい話となろう。世界の片田舎でのほほんと暮らしていたはずのウイルスが、人と物が短期間に大量に移動できる時代になって、それに付きまとって世界中の都市へと活躍の場が広がる。そこには今まで暮らした田舎よりも美味しい「餌」や「快適な環境」があり容易に増殖し、新種に変われる条件が揃っているのだ!

 対テロだ、集団的自衛権だ、美しい国・日本だ、と議論することを悪いとは思わないが、足下に忍び寄るウイルスとの全面戦争への備えを忘れてはなるまい。

北斗七星伝説
2007/05/07

 青森県には「北斗七星」伝説がある。
津軽富士とも言われる岩木山周辺にある「七神社」は、征夷大将軍・坂上田村麿(さかのうえのたむらまろ)が創建したと伝えられてる。その七神社を結ぶと、巨大な北斗七星が現れる。七神社とは、大星神社、浪岡八幡宮、猿賀神社、高岡神社(熊野奥照神社の説もある)、岩木山神社、鹿嶋神社、乳井神社である。

 八世紀の終わり頃、桓武天皇は、坂上田村麿を征夷大将軍に任じ、蝦夷(えぞ)征伐のため陸奥(みちのく)へと攻め入ませた。しかし、八甲田山の女酉長・阿屋須(おやす)と弟の頓慶(とんけい)の反撃に遭い、田村麿は大いに苦戦したという。田村麿はある夜「我、勝利に導きたまえ」と北天に悪鬼退散の祈願をして寝たそうだ。その夜、夢枕に北斗七星が現れて七枚の鬼面を田村麿に授けたそうだ。この面をつけた田村麿は、反撃に転じ阿屋須と頓慶をとうとう打ち取ったそうだ。
 蝦夷地を平定した田村麿は、七枚の鬼面を妙見社に奉納し崇めたという。妙見社は七神社のひとつ、現在の大星神社である。こうして、次々に七つの神社が上空高くから見ると北斗七星の形に見えるように配置されたという。

 今年もゴールデンウィーク期間の5月6日に、受験戦線を戦う我が第一ゼミナールの生徒の成績伸張、合格祈願のため北斗七星参りをした。青森の桜は散り始めてはいたが、来年こそ見事な花を咲かせてみせようと志望大学合格を期すわが生徒たちのために、大いに精進することを固く誓ったのであった。

写真は左が「大星神社」、右が「岩木山神社」

仕事冥利につきる
2007/03/21

 I君が、ひょっこり訪ねてきた。I君は、一昨年の浪人生だ。お世辞にもまじめな生徒ではなく、どの教科にも予習や復習の痕跡は見あたらず、英語の校内小テストなどで合格点をとることはまれで、何度注意したかわからない。
 勉強嫌いの割には志望校は明らかに高望みで、道内受験生の憬れの大学がそれであった。だが、悲しいことにというか、当然というか、彼の成績ではその大学を受けることすら出来ず、結局のところ滑り止めの滑り止めとも言うべき某私大の工学部に合格し、不承不承進学した。

 だが、ここからが違った。1年経った教室で彼が見せてくれたのは、大学の成績票だった。なんと、全科目ともテスト成績80点以上の評価「優」、試験で満点をとった科目もかなりあった。その中に、浪人時代の彼がもっとも嫌った英語が含まれていたことにとりわけ驚いてしまった。

 I君は訥々(とつとつ)と話し始めた。塾長の教えに反し、浪人時代は全く勉強しなかった。大学に入ってから本当にこのまま終わっていいのかと真剣に考えた。何もしないできた自分を奮い立たせ、勉強に励んだ。友達もできるようになった。大学の英語は、第一ゼミナールに比べるととても簡単で、浪人時代はすごいことをやっていたんだなあと思った。大学の先生とは授業のことで本気でやり合うこともある。今はとても充実していて、2年生になってもこの成績を続けたいと思う。すこし経ったら情報関係の国家資格を取ろうと思う。塾長に報告したかった。

 I君には自慢そうな様子はなかった。しきりに浪人時代を恥じる彼だが、自分の限界を超えた彼がかなり大人に見えた。彼の話には重みと確信があった。
Iよう、よく頑張った。お前はすばらしい。お前を弟子に持てて俺はとてもうれしいし、誇りに思う。
I君の顔が輝き、照れくさそうにはにかんだ。
別れを告げるときになって、また報告に来ますと言ったI君。今度はどんなIになって戻ってくるのだろうか。いまからとても楽しみだ。頑張れ、I。

風林火山
2007/01/18

 今年は「風林火山」が話題を集めそうだ。もちろんNHKの大河ドラマ『風林火山』の影響だ。
 このドラマは、甲斐の戦国大名武田信玄の伝説的軍師として知られる山本勘助の生涯を描いたものだ。第2回まで見たが、実際にはない若き勘助の放浪生活が描かれていたりなかなか興味深かった。しばらくの間、武田軍の軍旗「風林火山」が戦場を席捲するはずだ。
 ところで、この風林火山は信玄のオリジナルではなく、古代中国の春秋時代の呉の国の軍師・孫武の教えをまとめた有名な兵法書『孫子・軍争篇』からとったものだ。『孫子』は時代を超えて支持され、皇帝ナポレオンも熱心に研究したそうだ。現代においても政治家や経営者にファンが多い。

「兵は詐(さ)をもって立ち、利をもって動き、分合(ぶんごう)をもって変をなす者なり。
其の疾(はや)きことは風のごとく、
其の徐(しず)かなることは林のごとく、
侵掠(しんりゃく)することは火のごとく、
動かざることは山のごとく、
知りがたきことは陰のごとく、
動くことは雷の震うがごとく、
郷を掠(かす)むるには衆を分ち、
地を廓(ひろ)むるには利を分ち、
権をかけて動く、
先(ま)ず迂直(うちょく)の計を知る者は勝つ、此(こ)れ軍争の法なり。」

「戦いは敵を欺くのが基本で、自陣に有利になるよう行動し、分散と集合を図り臨機応変に立ち回らねばならない。
疾風のように素早く攻撃し、
林のように静かに陣を構え、
火がめらめら燃え上がるように一気に進撃し、
山のようにじっと陣を動かさず、
闇のように自陣の姿を隠し、
雷が轟くようにに突然攻め、
相手陣に攻め込むには自軍を分けて進ませ(どれが本隊かわからせないように)、
占領地を拡大するときはいくつかの拠点に分けて守り、
権謀術数をはりめぐらせ行動する。
迂回路を直進の近道に変える戦法をわきまえている者こそ勝利できる。これこそ戦争勝利の方法なのである。」

肝心の風林火山の部分だけでも心がけたいものだ。

マーフィーの法則
2006/12/28

 いつも思うことだが、我が受験屋渡世に年越しも正月もない。
 もちろん今は冬期講習のまっただ中、夏の講習に比べ一段と真剣さを増した受験生に正月気分がない以上当たり前の話だ。3週間少々にせまったセンター試験、1ヶ月あまりで始まる私大入試、2ヶ月を切った国公立大学入試、そして合格発表。受験の季節が終わる3月末まで平和で穏やかな気持ちに到底なれそうもない。

 マーフィーの法則は、 If anything can go wrong, it will.「失敗する可能性のあるものは必ずそうなる。」から始まる。米国空軍の技師であるエドワード・マーフィーが1949年につぶやいたこのシニカルな警句はいつも自分の頭のどこかを占めている。
 長年、受験指導をしてきて、「なんか心配だけど、ま、いっか。」、「本当はもう少しやっておかないといけないんだが...まあ、いいだろう」で済ませようとする時に、マーフィー氏に叱られることが多い。「トーストのバターを塗った面が下に向いて落ちる確率は、カーペットの値段に比例する。」ならぬ「手抜きした部分が入試に出る確率は、偏差値の高さ(受験生の志望の強さ)に比例する」の強迫観念から逃れることができない。

 今年も4月から始まった浪人クラス生との共同闘争−もちろん入試勝利を目指してだが−だが、マーフィーの警句の重圧のおかげ(!)でやるべきことをやり切ってきたと思う。受験生の熱い思いと懸命な努力が歓喜の叫びに変わる日は近い。その時に、少しだけマーフィーに隠れて受験屋の正月を過ごしたいと思う。

 本年度の塾長日記はこれでお開きとなる。忙しさにかまけて日記ではなく「月記」になっている。来年はできるだけ更新を心がけていきたい。このBBSファンにとって新年が素晴らしい年であることを心から願っています。

談合民族
2006/12/13

 最近話題の「官製談合」を英語でどう表現するのか調べてみたところ、collusive bidding at the initiative of government agencies ということになるらしい。「官庁が主導する裏で結託した入札」という訳だ。そのものずばりの表現で、わかりがいい。福島県知事にはじまり和歌山県知事、宮崎県知事が、談合で逮捕され、北海道深川市の市長もまた逮捕されている。これまでに官製談合で逮捕された自治体の首長は十数名に上る。日本が談合列島と化した感がある。このままでは、フジヤマ、ゲイシャ、ノウキョウ、ゼンガクレンといった国際日本語に「dangou、ダンゴウ」が加わるのも時間の問題だ。(受験生には、ゼンガクレンはわかるまい...?)

 官庁の責任者や担当者が、金銭を受け取ったり、選挙応援目当てに特定の業者だけに公共事業を発注することは断じて許されることではない。しかし、困ったことに、そもそも日本人は「談合民族」なのだ。

 国際日本語の一つに「nemawashi,根回し」というのがある。会議での決定の前に、あらかじめ関係者が協議し意志一致を図り、会議が始まる前に大勢は決している。会議はセレモニーに過ぎない。会議という公式な場ではなく、関係者の協議という私的な場が優先される。協議は、周りから見えないことが多く、密談と化すこともしばしばだ。オープンな場での討論と決定が当たり前の欧米人には理解できない「日本的」意思形成方法だ。もっとも、最近になって、欧米の会社などでは、「ネマワシ」の効用が注目されている。ネマワシは、利害が複雑に絡み合う現代社会での有力な調整方法になっている。

 対立・抗争のただ中から新しい有用なものが生まれる、という欧米的発想は、本来農耕・定住民族である日本人には馴染み辛い。公式な場で、相手と丁々発止と渡り合い、時には力でねじ伏せ、時には数で圧倒する光景を日本人は好まない。談合と根回しこそ、日本人がもっとも得意とする分野である。まして、官公庁優位社会である日本では、「天の声」は利害関係の調整に最適なのだ。

 その「天の声」があまりにも露骨に特定関係者に優位に響くとき、官製談合が「本来の健全さ」を取り戻すべく、「事件」となる。談合が悪いのでもなければ、「天の声」そのものが悪いのではない。「事件」にならなければならないほど根回しが不十分なのか、あるいは、根回し自体がなかったことが問題とされるである。

 どんなに罰則を強めても、おそらく業者による談合や官製談合はなくならない。ますます深く暗いところで周到に根回しが行われ、より陰湿な談合体制が作られていくだろう。日本に公正かつ公平な「開かれた社会」と「開かれた市場」をもたらすために、我らは一体いくつの「事件」とハードルを乗り越えなければならないのだろうか。

佐呂間町の竜巻事故
2006/11/09

 今朝の雷はすごかった。短時間でこれだけ光り、落ちたのは余り記憶にない。我が家の食いしん坊の飼いウサギも餌を食べるのを何度も中断しなければならなかった。
 一昨日(11月7日)から昨日未明にかけての強風もすごかった。窓がきしみ、換気扇の蓋が立て続けに鳴り、不気味で不安な気持ちになった。道東で竜巻による事故が起こったはこの時だった。佐呂間町の若佐地区で竜巻が発生し、近くのトンネル工事を請け負っていた大手ゼネコン「鹿島」などのJV(共同企業体)の鉄骨プレハブ製工事事務所や民家などが倒壊し、建物の下敷きになるなどして工事事務所内にいた9人が死亡。女性1人が重体、22人が重軽傷を負う惨事となった。この地区は、最大幅100メートル、長さ800メートルにわたって家屋は倒壊し、電柱は一斉に倒れ、地域は一瞬にして廃虚と化したそうだ。この竜巻はなんと時速80キロメートルで駆け抜けたそうだ。
 自然のすさまじいエネルギーに驚きあきれ果てるが、なんと自然は無慈悲かとも思う。犠牲となったのが、なぜ、道東の素朴な町なのか、なぜ、善良な工事関係者なのか。「神様は時々出来心で私たちをもてあそばれる」といったのは、W.シェークスピアだったが、それにしても...。
 犠牲者のご冥福をただただお祈りしたい。

 ところで、日米野球だが、5戦全敗の情けなさよりも我が日本の主力選手の出場自体ラッシュに腹立たしさを通り越して、絶望憾を覚えてしまう。いつから君たちはそんなに偉くなったのだ?いつから君たちはファンの期待よりも君たちの個人事情を大切にするようになったのだ?いつから君たちは日本プロ野球の現状を憂うことをやめたのだ?いつから君たちは今のプロ野球を支え、明日のプロ野球選手たちに夢を与えるプライドと責任を捨ててしまったのだ?

カタカナ語を使う新総理
2006/10/05

 安倍新総理の国会での所信表明演説にカタカナ語が109個も使われたことが話題になっている。これまでのどの総理よりもカタカナ語が多いのは、さすがにカタカナ語に違和感を覚えない戦後生まれの首相である。もっとも、チャレンジを「挑戦」、ルールを「規律」、チャンスを「機会」、ハードルを「障害」、リスクを「危険」と言ったからといって安倍首相の「アイデンティティ」を損ねはしなかったと思うが。
 だが、「アジア・ゲートウェイ」構想、新健康「フロンティア」、子育て「フレンドリー」、「ライブ・トーク官邸」、「タウンミーティング」は、「美しい国づくり」を全面に掲げ、そのための教育改革を推進する総理の使う言葉としてはどうしても疑問詞が付いてしまう。

 総理はもちろん日本人はカタカナ語が大好きだ。日本を代表する産業である自動車産業ですら、乗用車名は全てがカタカナだ。自動車メーカーには、トヨタ(豊田ではない!)を代表する「クラウン」を「王冠」、ニッサン(こちらは日産ともいうが)の人気車種である「フーガ」を「遁走曲」、ホンダ(やっぱりカタカナ)の高級車「レジェンド」を「伝説」と名付けて販売する勇気はなかったとみえる。 ビジネスの世界はカタカナ語の合間に「純」日本語が使われる有様だ。面接、面談の約束を意味する短縮語の「アポ」はごく普通に、打ち合わせを意味する「ブリーフィング」は男性用下着メーカーとは関係なく、「ソルーション」、「セグメント」、...いい加減にしろとばかりに使われる。カタカナ語の方が日本語よりもカッコいいと思う気持ちが見え隠れしてなにか後ろめたい気持ちにさせられる。
 コンピュータの用語に至っては日本語を探す方が難しい。パソコン用語に代表される専門語は、適切な和訳を考える暇もなく次々に生まれることが多く、ある特定の人たちだけで使用されるだろうからやむを得ない。むしろ、パソコンを「個人向け電子計算機」、メモリを「手順読込記憶媒体」などの方がおかしい感じがする。
 日常生活でもカタカナ語の方が自然に聞こえる場合もある。ストーブ、バケツ、セーター、ビール、パンなど国民の多くが長い時間をかけて自然に取り込んだ言葉がそうであろう。いわば「標準外来語」である。今回の演説で、トンネルを「坑道」、ミサイルを「飛び道具」と呼んだらむしろ「なんのこっちゃ?」と考え込んでしまうかもしれない。
 しかし、インフラ、ワンセグなどの「非公認または半公認短縮語」は、相手を選んで使わないと通じないだろうし、ライトアップ、ガッツポーズ、アメリカンコーヒーなどの「和製英語」を本物の英語だと思って使うと恥をかくことになるかもしれない。もちろん英語を母国語とする人にはまず通じない。
 また、例えば、ご飯とライスは同じモノを指しているが、「ご飯」には炊いてくれた人、給仕してくれた人の思いやりを感じる点でライスとは違いがあるかもしれない。「今夜は生きの良いサンマが手に入ったから焼こうかしら」に対して、「じゃあ、ライスにしてもらおうかな。」では、サンマはもちろん人間関係もまずいかもしれない。


 新総理が、「美しい国」を作るために用いたカタカナ語構想が、今はともかく、今後日本語の実感として「美しい国」の人々に受け止められるかどうかは大いに疑問である。

理系と文系
2006/09/19

 東京大学は2008年度入試から、後期日程試験の募集定員を現行の300人から100人に減らし、理科3類(医学部進学)を除く全科類(文科1〜3類・理科1〜2類)を 一本化して募集することになった。東大は、「理文融合学問の重要性が高まっている。高校や中学の早い段階から理系・文系を決めて閉じこもる傾向に一石を投じたい」としている。試験は文理の区別なく一本化されたが、合格者は入学手続き時に科類の登録をすることになっており、せめて1年間でも文理融合のまま勉強させても良い気はするが、これまでにない試みとして評価したいと思う。

 文系と理系を区別するのは、かなり日本的な特徴らしい。欧米では、自然科学、人文科学、社会科学の区別はあっても文・理に二分化することはない。文理の区別は、大学受験準備のため、主に高校における履修科目のコース分けにおいて使用されていることから来ている。高校生は、3年次または2年次に文理の区別を迫られることが多い。

 自分は、高校2年生の時に文学部を志した。文系でいこうと決めたのだが、先輩からの恫喝で、「理転」の運びとなった。「お前、それでも男か!男なら数学と理科をやれ!理系になれ!」日本が高度経済成長を遂げていたいた時代、「モノつくり」が圧倒的に優位だった時代ならではの話で、今こんなことで自分の「文理」を決める高校生はいない。
 自分は、文学や哲学に興味があり、よく読書をしていたので、結果として国語で高得点をあげていた。反面、数学と理科にはあまり興味もなかったし、当然得点源としては頼りなかった。それでも先輩が怖かったせい?で、いやいやながらもなんとか数、物、化をこなし、やがて(浪人を経て!)工学部に進学し、卒業後は技術職についた。自慢するわけではないが、技術屋としては、まあまあだったと思う。
 自分は大学の専攻も職業も理系だったには違いないが、今日に至るまで「理系人間」であると思ったことなどない。もし、先輩の恫喝に屈せずに、文系学部に進学していたらヒトカドの人物になっていたのではないかと(?)、渇を入れたくだんの先輩を恨んでいる有様だ。(もちろん冗談)
 
 日本の大学、とりわけ国立大学のほとんどが理系偏重であることから、高校生や保護者に理系志向が強く、能力的に理系>文系と思われがちだ。「数学が出来る奴は頭が良い」と今でも信じ込まれているが、国語、社会で高得点をあげてもあまり「頭が良い」とは言われない。理系信仰もかなり日本的な特徴らしく、会社時代にアメリカ人に聞いたところ、さかんに首をひねっていた。「俺は、国語(アメリカ人の立場では英語)が出来る奴のほうが頭が良いと思うが。」ちなみに彼は技術職だった。そして、「でも、本当に頭が良いのは自分の任務や責任を果たすために何をやるべきかを知っている奴だ。」と続けた彼はまさにその典型的な人物だった。

 早い時期から文理の選択を強いることは問題が多すぎる。受験情報は氾濫しているが、高校生のほとんが、自分の適性も将来展望も持たずに文理を決め、大学の学部を決めてしまう。経済学部と経営学部、商学部の違いも知らずに偏差値と学部偏見だけで決めてしまう。医学部の極端な人気しかり。

 大学入試の現状から、とりあえずは高校時代の文理の区別を是認せざるを得ないが、大学進学後の2年間は学部や専攻決定の猶予期間とすべきだ。今やほとんど死語に近いが、「一般教養課程」を充実することも必要なのではないだろうか。それぞれの分野の専門家を目指す大学院の進学者が増加している今、なおさらそう思う。
 かつて、北大は文類と理類に分けて(他に医進課程、水産類)入試を行っていた。最終的には1年半の一般教養の成績で進路が決まるのだが、入学後に自分の進路をじっくり考えられるすばらしい制度だったと思う。なぜ廃止してしまったのか、残念でならない。

 制度改革はただちに実現はしないが、理系を選択したら「理系人間」、文系なら「文系人間」と自己規定してその後の人生を歩む必要はない。遺伝子操作の是非は、数学と理科が出来る人間だけで決めることではないし、国の進路は法学部出身者だけで判断することではないし、シェークスピアは文学部の独占物ではない。
 確かに、「文系・理系」のあらゆる学問・分野に秀でたルネッサンスの雄たるレオナルド・ダ・ヴィンチに誰でもなれるわけではない。しかし、自分を「専門分野」に縛り付けて、眠っているかもしれない他の分野の才能を殺すのは、自分にとっても社会にとっても不幸としか思えてならない。

鑑真和上展
2006/08/08

 当時中国最高の仏僧といわれた鑑真が,最初に日本へ向かおうとしたのは、今から1260年前の西暦743年だった。密告する者があり、この計画は中止となった。同じ年にさらに二回の渡航を企てるが、いずれも大嵐に見舞われ失敗。11年後に4度目の渡航計画を立てたが、またしても密告のため中止を余儀なくされる。5度目は748年、出国できたものの、嵐に船は流され、14日間も漂流、遠い南の島にたどり着きそこから陸路本国に戻ったのは1年後であった。隣国日本はあまりにも遠く、渡航は絶望と思われたが、最初の渡航計画から10年後の西暦753年、遣唐使・大伴古麻呂の帰り船に乗船し、とうとう沖縄に上陸、6度目にして初めて日本の地を踏むことが出来た。密航であった。仏舎利を携え、弟子24人を連れて奈良の都に着いたのは、翌754年のことだった。この11年の間、多くの弟子を失い、自身は潮風で失明するに至った。

 生命を賭しての来日だったにもかかわらず、鑑真と時の政権者の思惑は大きく異なっていた。中国最高、最良の戒律師である鑑真に求められたのは、仏教界の風紀の乱れの是正であった。折からの仏教ブームで、課税免除など特権が得られる僧侶の希望者は多く、能力も識見も劣る僧侶が暗躍した。250項目の規律を守ることを誓い、正式に受戒した者だけを僧侶と認める律宗は、まさに政権者にとって理想であった。鑑真の権威は絶大であった。瞬く間に、仏教界は浄化されていった。悪徳僧侶は一掃された。
 だが、鑑真は違った。鑑真の願いは、僧侶を減らすことではない。正しい仏法の伝道と、それを担う優れた多くの僧侶を育てることだった。かくて、鑑真と大和朝廷との対立の溝は広がり、鑑真は僧侶の最高位である大僧都を解任され東大寺を追われた。
 鑑真を慕い、「私立」の唐招提寺の戒壇で、鑑真から受戒を受けたとしても僧侶として認められることはなかった。来日から11年、中国仏教界の最重鎮たる鑑真大和上は、母国に戻ることなく、異国の地・日本で静かに果てた。

 札幌の北海道立近代美術館で、かの人と、正確には、修復のため唐招提寺を離れた鑑真の乾漆像と向き合った。鑑真には散々利用され、最後は見捨てられ、授戒の資格すら奪った日本の朝廷への恨みがあったろう。来日にあたって行動を共にした多くの弟子達を失った悲しみがあったろう。二度と故郷の地を踏むことが出来ない無念さもあったろう。
 俳聖芭蕉は、唐招提寺の鑑真像と対面し、「若葉もて おんめの雫 ぬぐはばや」と詠んだ。「柔らかい若葉で、あなたの不自由な目から流れる悲しみの涙をお拭きしたいものだ。」と。芭蕉の鑑真への限りない思慕の念が伝わってくる。

 だが、弟子ができるだけ実際の鑑真に近いものをと、死の直前に造り上げたと云われる鑑真像に深い悲しみの表情はない。あるのは、仏教に従った彼の一生に対する穏やかな満足感と、奥底から静かにわき上がるあくなき布教への意志である。本国での僧侶の最高位と待遇を惜しげもなく捨て去り、極東の小国に身を投じた鑑真に後悔と迷いはなかったはずだ。

就職好転す!
2006/07/27

 大卒の就職状況が好転し始めたらしい。就職情報サイト運営の毎日コミュニケーションズによると、来春新卒の就職活動は、「バブル期並みの売り手市場だった」と結論づけている。求人総数は82万5千人で、過去最高だった1991年卒の84万人にほぼ並び、、求人倍率も1・89倍とこれもバブル期並みだったという。「就職氷河期」といわれた2000年卒の求人倍率は、0・99倍に比べ倍増の勢いがある。
 学生の意識にも変化が生まれ、就職活動を「楽勝」と思う学生が増加しているそうだ。前途に不安を抱えていた数年前の学生のイメージはもうない。一方、雇う側の企業は内定者の確保に苦戦しているという。少し前まで強気だった企業が、優秀な学生を求めて大学に頭を下げて回る光景が見られるという。「大学を出たけれども...」と就職難が嘆かれ、医療系専門学校や資格の取得がもてはやされた時代がまた変わろうとしている感がある。

 就職は大きく社会情勢、特に経済状況に左右される。自分が大学生の頃は、完全に学生の売り手市場。シュウカツ(就職活動の略)などという言葉すら聞かれなかった。複数の会社を受験しては、日当と交通費を「稼いだ」学生も多かった。時代が変わって、オイルショックで高度経済成長がはじけた70年代後半になると今度は企業の買い手市場。就職は東大か慶応でなければ無理とまで言われた。それまで企業回りの習慣がなかった北大の後輩学生が、少ない職を求めて東京の企業を巡った。バブル期になるとまた、学生の売り手市場、それがはじけると企業の買い手市場、そして今、何度目かの学生優位の時代。学生にとっては運頼み、良ければ時代に感謝し、悪ければ生まれた時代を恨む他はない。

 自分から見て優秀と思われる学生が企業から敬遠されることがある。近頃、企業が求めるのは「コミュニケーション能力」だそうだ。テレビで学生の就職面接試験の練習を見たことがあるが、企業が採用するだろうと目された学生は確かに弁は立つし、頭の回転も良さそうだし、周りに気配りもでき「即戦力」の期待は持てそうだ。しかし、と、自分は思う。言葉が拙くても、多少気が利かなくても、多少緩めに頭が回っても、責任感があり、自己研鑽志向があるならば、それだって良いのではないかと。もっとも、かの就職試験でそれが認められるかどうかははなはだ疑問だが。


menu前ページTOPページ次ページspace.gifHOMEページ

- Topics Board -