石倉先生逝く | - 2007/06/15
- 敬愛する石倉邦彦(くにひこ)先生がお亡くなりになった。数学をこよなく愛し、片時も数学の書物を離すことなく、嬉々として生徒のための教材作りに励み、汗を滴らせながら教壇で数学を熱く語ったあの石倉先生が、こんなにも早く神に召されるとは!
石倉先生との出会いは、先生が高校の進路指導部長であった16年前の春だった。浪人クラスの募集要項持ってご挨拶に伺ったのだが、昼食をとりながら(!)数学者・秋山仁(あきやまじん)の著書に向かう先生のお姿にまず驚かされてしまった。私が名乗ると、とても人なつこい笑顔をを見せて、「今、コーヒーを入れるから」と、ドリップ器具を取り出し、煎ったコーヒー豆の香りを楽しむかのように、ゆっくりとお湯を注ぐのであった。入れ立てのコーヒーを勧める時の笑顔に少しだけ恥ずかしさがあって、当時先生はお年は50歳を少し越えられていたが、自分にはとても新鮮に思われた。
その後何度かお会いする機会があり、その都度先生の数学の造詣の深さに感心させられっぱなしだった。数学を語る先生の笑顔には、あのコーヒーを勧めてくれたときと同じ恥ずかしさが見えたが、輝いたお顔の表情から数学への慈しみの気持ちがいつも伝わってきた。いつしか、この方を私の先生にしようと勝手に思うようになっていた。
高校を定年退職されてから一年後、先生から、「おい、お前の仕事を手伝うぞ。」と、うれしいお話をいただいた。もちろん異論があるはずもなく、それから7年に渡って共に教鞭をとってきた。先生は、生徒の力量を素早く的確に把握し、原則を守りながらも、時に回り道をする柔軟さを備えていた。演習プリントや宿題プリントなどの教材は常に入試傾向が反映されたものに仕上がっていた。「休まず、遅れず、正確に、誠実に、元気に」いつも背筋を伸ばし、堂々たる受業だった。−−「予備校は文化だ。その担い手である第一ゼミナールを北海道に根付かせるために、将来ある子供たちを大学生にするために俺はいつ死んでも良い。−−自分が勝手に師と仰いだ石倉先生の決意を聞いて、自分はどんなに奮い立ったことか!
「全道ナンバーワンの数学=受験数学の王道の確立」の志半ばで先生は逝ってしまわれた。絶対に取り乱すまいと思ったが、先生のご遺体、お顔を拝見し不覚にも涙を止めることができなかった。
自分の机の上に、生前先生からお預かりした「受業のための覚え書き」ノートが置かれている。几帳面な性格そのままの数字、記号、グラフ、そして、計算間違いなどありそうもないそのノートのページを繰ると、思わずこみ上げてくるものがある。ノートのページに先生の優しい笑顔が重なる。悲しみの涙は尽きないが、石倉先生とともに達成しようとしたことを,非力ながら残された我々が成し遂げていこうと、強く思った。かけがえのない我が師のご冥福を心からお祈りする次第だ。
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