塾長日記

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空海さんの学校
2017/06/19

 学習塾を経営している者の少なからず多くが理想としているのが、吉田松陰とその私塾である松下村塾だ。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋など幕末、明治維新の英雄を輩出した松下村塾は、先生が教えるだけの一方通行の教育ではなく、松陰とその弟子達は、お互いに自由に議論し、教え合い、学び合いを旨としていたそうで、さしずめ「コーチング型」学習塾の源流と言えるかもしれない。
 松陰自身は、「知行合一」の陽明学者であったせいで、その行動は鮮烈を極めた。松陰を崇める方からはお叱りを受けるかもしれないが、かなり「狂っている」、「よく分からない」お方といったほうがいいかもしれない。東北の海防調査を計画したが、所属する長州藩の通行手形が降りず死罪覚悟の「脱藩」をした。黒船に盗んだ小舟で横づけし、乗り込みを図り追い返された。こうして、牢屋を経験すること実に5回に及んだ。心配して反省を求める弟子達に激高、絶交を言い渡したりもした。最後は安政の大獄に連座し、29歳の若さで処刑されてしまった。
 こんな松陰だが、地位、門閥に関係なく、若者を師弟の区別なく育てることに努めたが、弟子達には、常々「諸君、狂いたまえ」と説いたそうだ。現状に満足することなく、常識や慣習に挑むことの大切さを、身をもって実践したのだからすごいとしか言い様がない。教育者が憧れる一人ではある。

 自分は、若いときはかなり松陰先生を尊敬していた。身を縛られるようにして時代を生きることへの反発がそうさせたように思う。今は、真言宗に帰依しているせいもあって、教育者としての空海さんに惹かれている。
 空海さんの起こした「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」は、829年、京都の左京・九条の邸宅に設立した我が国最初の民間教育機関であった。地位、貴賎に関わらず、向学心も持つらゆる人々に開かれた学校だった。綜芸はあらゆる学問,種智は仏の智を意味しているが、授業料は一切なく、目指したのは社会に貢献する人材の育成であった。空海死後、運営費用の問題もあって綜芸種智院は閉鎖されてしまったが、その精神は受け継がれ、江戸時代になって「寺子屋」、「私塾」となって結実した。
 寺子屋の数は全国で1万を超えたと言われ、庶民の多くがここで「読み・書き」を学んだ。当時世界で最も識字率の高かった日本の教育を支えたのは実にこの寺子屋であった。また「私塾」も多く作られ、鳴滝塾(長崎・シーボルト)、適塾(大阪・緒方洪庵)、洗心洞塾(大阪・大塩平八郎)、梅花塾(大阪・篠崎小竹)などからは有能な門下生が輩出された。江戸末期の、かの松下村塾もそのひとつである。
 
 もちろん公的教育には立派な目的・使命がある。一方では、私教育もまたそれに劣らず重大な使命・目的がなければならない。第一ゼミナールを起こしてから35年の歳月が流れた。ノブレス・オブリージュの旗を一層高く掲げて行きたいと願っている。権力の威光を借り、権力に寄り添い、大衆を欺きながら作られるかの獣医学部など、果たして私教育の存在意義を理解しているのであろうか。

阿修羅像に思う
2017/02/09

 学生時代、札幌にいながら、「カップルで見たら別れが待っている」という都市伝説を信じたわけではないが、”雪まつり”には余り縁がなかった。北大の寮から混み合う市電に乗って、酷寒の札幌の夜の大通公園まで出かけるには多少の”気合い”が必要だったからではなかったか。要は無精なのだ。札幌を離れてからは、専らテレビのニュース番組で雪まつり光景を見て、大雪像のあまりの見事さに感心している。

 今年は、大通り8丁目会場に、興福寺中金堂の大雪像が鎮座している。夜になるとプロジェクションマッピングで、興福寺の国宝「阿修羅像」が投影され話題になっている。
 
 興福寺に安置されている実際の阿修羅像はとても人気があって、思わず「可愛い〜」とおっしゃる女の方々が大勢いらっしゃるんだそうだ。自分はさすがに「可愛い」ではなかったが、数多く見た仏像の中で明らかに少年を想わせる阿修羅像には、表情の異なる3つのお顔のせいもあって、少なからず戸惑いを覚えた。
 古代のインドの神話になるが、阿修羅=アスラは最強の神であるインドラに娘を奪われ戦いを挑むが敗れて天から追放されてしまう。
仏教に取り込まれてから、アスラは阿修羅と言われることが多くなったが、お釈迦様の守護神である帝釈天=インドラとやはり戦ってばかりいた。この戦場が”修羅場”と言われるのだが、古代インド同様に常に敗北し、六道の修羅界に鬼神として追放されてしまう。あの少年が?である。ただし、その後は仏の教えに目覚め、八部衆に加えられ、釈迦如来様をお守りするようになる。3つのお顔のうち正面は仏教に目覚めたお顔、左のお顔は後悔と反抗を、右のお顔は憂いと懺悔を表すと言われる。少年阿修羅に、果たしてそのような苦難の歴史を背負い込むことができたのであろうか、少年にして反抗への後悔と懺悔、そして仏教への帰依に至る葛藤を続けざるをえなかったのか、阿修羅像と向かい合い自分はやはり戸惑ってしまった。

 奈良・興福寺は、710年に藤原不比等により創建された。薬師寺とともに南都六宗・法相宗の中心寺院である。度々火災に見舞われ、都度再建されてきたが、明治の廃仏毀釈で崩壊の危機にも見舞われた。現在、境内に3つある金堂の中核である”中金堂”は大修復工事を経て平成30年に再建されることになっている。また、阿修羅像に会いに行きたいが、今度は何を感じさせ、思わせてくれるのだろうか。

新年最初の塾長日記
2017/01/10

 年が改まった。『塾長日記』と名付けたものの、良くて月に1回、下手すれば季節ごとの追加になってしまった。書きたいことは山ほどあれど、電話、面談、打ち合わせ、教科指導など途中での度重なる中断で中々うまくいかない。まあ、これは半分以上は言い訳だ。

 センター試験が3日後に迫った。校舎がいつも以上に静かだ。ほぼ全員がセンター試験過去問に取り組んでいる。理科と地歴公民はかなり有効だと思うし、国語、英語、数学も時間の配分、解く順序など確認は大事だ。それに、誘導式のセンター試験のためのいわゆる「センター脳」を作っておかなければならない。直前の「本番レベル最終模試」の成績に気を良くはしているが、今は、本番まで健康を損ねることなく、「普段着」での受験で追われるように気を使い、そして、お祈りしたい。

 さて、トランプが掲げる「アメリカ第一主義」に世界第一の自動車メーカーであるトヨタが早速屈服したようだ。トランプがクレームを付けたメキシコでのトヨタ新工場建設、どこに何を作ろうが勝手だと思うのだが、トヨタはそうは思わないらしい。アメリカに1兆円を投資するのだそうだ。メキシコ新工場お目こぼしの見返りかどうか分からないが、実に情けなく不愉快な気分になった。
 かの安倍マリオも、まだ大統領に就任もしていないトランプの下に猪の一番に駆けつけ揉み手した。ついでに、訳もわからない真珠湾訪問でオバマにへいこらする。大遅刻のプーチンに温泉まで準備して、これまた揉み手する。マリオにしても、トヨタにしても、政治、経済の我が国トップの腰抜けぶりに、「日出処の天子、書を没する処の天子に致す」と言ってのけた聖徳太子と比較してしまうのは自分だけか?

 グローバリズムの正体が垣間見える気がする。グローバリズムとは超大国の下での世界再編だ。このままでは、日本はアメリカへの従属を益々深め、アメリカの思惑に沿って、北方領土がらみのロシアとはなあなあの関係を、中国とは政治的・軍事的には一層の緊張関係を作らざるを得ないだろう。謳い文句の「ヒト・モノ・カネ・情報の自由往来」が無秩序=無政府的に進むものでは決してない。

 とはいえ、我が受験生は大学進学とその後の就職で否応なしに「グローバリズム」の世界に入り込むことになる。体制=大勢に無条件に迎合することなく、自分の意志、学識、良心に従って文字通り「独立自尊」を貫き、自分の夢の実現に向かって進んで欲しいと心から願っている。

 

電子書籍は歴史物だらけ
2016/10/20

 歳をとると「歴史もの」に惹かれるという。自分も例外ではなく、電子書籍の端末は歴史小説が幅を利かせるようになった。『のぼうの城』、『壬生義士伝』、『村上海賊の娘』は一気に読んでしまった。多少手当たり次第の感はあるが、短期間でかなりの数の歴史物を読み楽しませてもらった。中でも『天を衝く』(高橋克彦著)は秀逸で、わくわくしながら読んだ。「秀吉に喧嘩を売った男・九戸政実(くのへまさざね)」が副題だ。どうも自分は反主流派とか無頼に惹かれる傾向があるようだ。

 NHKの大河ドラマ『真田丸』が面白い。それも、主役を演ずる堺雅人ファンには申し訳ないが、真田信繁(幸村)よりも父親の昌幸が素晴らしく良い。演ずる草刈正雄ってこんなに上手かったかと思うくらいだ。まあ、脚本が三谷幸喜だからかなとも思うが、知略に長け、腕っぷしが強く、家来からの信頼も厚く、家族・女衆に見せる優しさが好ましく、いわば「男の中の男」といった感じの繁幸が前面に出ていた。しかし、武田に始まって北条、上杉、織田、徳川、豊臣と臣従関係を取り結ぶのだが、最後は失意の中、追放先の九度山で息を引き取る。智略・武略に長けててはいるものの、運が悪いのか、はたまた決断ミスなのか、戦略・戦術が裏目裏目に出てしまうところがなんとも歯がゆい。所詮は武闘派なのであろうか。何か自分にも通じるようなところが...。

 さて、話は変わるが、アメリカのシンクタンク『The Pew Global Attitudes Project』の調査によると、「自力で生活できない人を政府が助ける必要はない?」に対して、日本人の38%がYesと答え、アメリカの28%、中国の9%を超え、日本は世界で最も「弱者に冷たい国」ということが示されている。さらに、生活保護費がGDPに占める割合は、OECD加盟国平均が2.4%に対して、アメリカ3.7%、イギリス4.1%、ドイツ2.0%、フランス2.0%だが、日本は最低の0.3%に過ぎない。アメリカには悪いが、アメリカはそんなに寛大な国ではない。今だに人種差別はあるし、経済格差は日本の比ではないし、「優勝劣敗」思想が跋扈するお国柄だと思っている。そのアメリカにすら引けを取るような日本の悲しい現実がある。

 しかし、社会的弱者、経済弱者への謂われのない批判・罵倒がネット右翼のみならず政治家から公然と出、年金始め社会保障費の削減が当然のように語られ始めている。一方では、−「夢」なのか「感動」なのかを今一度味わいたい人が多いのか−東京五輪に向けて3兆円もの天こ盛りの予算を組んでいるらしい。何かおかしくないか?

 社会が寛大でなくなった時、人から寛大さが失われた時、その社会はあるいはその人は、果たして信頼に足る存在であり続けられるのだろうか? 弱者をはじき飛ばすことが当たり前だと思っている日本は、かの総理が言う「美しい日本」でもなんでもない、取り戻すべきは「強い日本」ではなく「寛大な日本」だと思う。

 ところで、「意見を言おうと言うまいと、国民は常に指導者たちの意のままになるものだ。簡単なことだ。自分達が外国から攻撃されていると説明するだけでいい。そして、平和主義者については、彼らは愛国心がなく国家を危険に晒す人々だと公然と非難すればいいだけのことだ。この方法はどの国でも同じように通用するものだ。」とは、ナチスドイツの最高幹部だったゲーリングの言葉だ。
 「テロとの断固たる戦い」、「中国の脅威」、「積極的平和主義」と叫びながら、憲法9条を更に拡大解釈し、集団的自衛権を法制化し、海外に武装自衛隊を派遣し、さらには憲法そのもを根底から変えようとする現在の流れに、そして、それに危惧を抱くものに「反日」のレッテルが貼られるような日本の現実に、「繰り返される歴史」の危機を感じるのは自分だけだろうか?

 寛大でない社会はまた単純な言葉と力で物事を解決しようとする社会だ。願わくは、心ある国民が、この悲しい忌まわしい現実を直視し、Noという声を上げてくれんことを。

今、燃えている
2016/07/06

 東京大学、かつて憧れ、とうとう入学が叶わなかった大学を本気で目指そうと思う。いや、流石に自分ではない。この第一ゼミナールである。人口30万弱の町で、毎年ほんの数名だけが東大に合格する現状は、一言で言えば、実に情けない。田舎だから仕方がないとは思わない。卑しくも受験屋としては「〜だから」と言い訳をしたくはない。本年9月1日から「東大特進ゼミ」を開講する。対象は、小学4年生から高校2年生とし、学年別でなく、あくまでも個別に東大合格対策を進めたいと思う。目標は、5年以内に10名以上の東大合格者を育てたい。石田清の30余年の受験屋人生の最後の戦いだと思っている。

 ところで、バングラデッシュの首都ダッカで、イスラム・テロリストによるむごい殺戮があった。日本人7名の尊い命が失われた。大志を抱いて、かの国の発展のために活躍していた方々だけに残念でならない。心からお悔やみ申し上げ、真言宗徒の一人として御成仏をお祈りしたい。

 言うまでもないが、テロリズムにもテロリストにも同調するつもりは全くない。非戦闘員たる民間人を犠牲にする行動に正義など断じてない。だが、日本人はたまたま居合わせて犠牲になったのではない。標的になったのである。なぜか?

 昨年1月、我が国総理は、エジプトで「イスラム国」対策のために、イラクやレバノンに2億ドルを支援することを約束した。難民支援、人道支援という名目が付けられてはいたが、「イスラム国の脅威を食い止めるため」、「イスラム国と闘う周辺各国に」とわざわざ強調した。総理はあまり常識のない方なので、戦争状態では、例え難民支援、人道支援でも後方支援として利敵行為とみなされることを知らなかったかもしれない。彼は、事実上、「イスラム国」に宣戦布告をしたのだ。

 その後、イスラム国で湯川遥菜、後藤健二さんが処刑されたが、残念ながら総理=政府は人名救済のための実効策を取ることはなかった。「テロには断じて屈しない」という総理の言辞があまりにも非情に聞こえたのは自分だけか? 今も、シリアでフリージャーナリストの安田純平さんが反政府ゲリラに拘束されているが、日本政府は完全に見捨ててしまった。「テロとの戦い」の犠牲はやむを得ないということなのだろう。

 宣戦布告をし、「断固たる戦い」をぶち上げた以上、これから起こることの責任はだれが負うのだ?いやしくも戦いであるからには、戦う覚悟、戦いの準備、当然起こる犠牲の覚悟が必要だろう。だが、しかし、一体誰がこんなことに同意したというのか? 国民は一度だって問われたこともないし、だから、覚悟も準備などしていない。だとすれば、残忍なテロリストの前に無防備・無垢な国民を曝け出すだけではないのか!? 総理が、戦前の軍国主義に憧れていることは承知しているし、日本の戦後を決定づけたポツダム宣言も読まないのに「戦後レジームからの脱却」を滔々と話すことも承知しているが、少なくとも、見通しもないのにいい気になって「戦い」を叫ぶ、この無責任極まる男に大事な生命など預けたくはない。(ついでに、この無責任総理は、国民の了解を得ることもなしに、株高を演出するために大事な年金基金の50%を株につぎ込んで、含み損を膨らませて、ケロッとしている。)

 恐らく、日本人が標的になるのはこれが最後ではないだろう。今も世界のどこかで、ひょっとしたらこの日本のどこかで密かに狙われているかもしれない。我が総理はそれを持っていて、それを口実に、十分な議論もなく制定された安保法の適用と軍備・警備力の増強、日米軍事同盟のさらなる深化を進めるのではないかという危惧を捨て去ることはできない。

 本来日本と無縁な事情で始められたアラブと西欧の戦いに日本がしゃしゃり出る云われはない。国際貢献とは、一方に加担し戦争を激化させることではない。黙って見ている、乞われたら仲裁に入るが一方に与しない、これまで通りの平等な経済援助をしその国の発展に寄与する、これこそが長年に渡って積み上げてきた日本に相応しい国際貢献であろう。勇ましく戦いをぶち上げ、国民の生命・財産を守るなどと大声を張り上げるが、結果は、国民の生命を危うくするだけの現政権は大いに疑問だし、御免蒙りたい。

「保守」の自分
2016/06/13

 多分、自分は保守だと思う。日本の伝統や風土に根差した文化がとても好きだ。だから、経済、政治はおろか、文化・教育まで土足で入り込んできてアメリカナイズを迫るTPPなどとんでもないと思ってしまう。
 地震国日本にも関わらず、大量に作られ、生活の安全を脅かし、自然を侵食する原発は即座に撤廃すべきだと思う。
 原発を落とし無垢な市民を虐殺した当の国の大統領が、一片の謝罪も反省もなく、「雲ひとつない晴れた朝、空から死が舞い降り、世界を変えた。」などと己の美辞麗句に酔いしれる様を「歴史的」などとは微塵も思わない。
 「日本を守ってやっている」と強弁するが、実はアメリカの世界軍事戦略に編み込んだ沖縄の米軍基地を、そして、あの美しい沖縄の海を汚す米軍基地を、長年にわたって、罪もない婦女子に狼藉を働く元凶の米軍基地を好ましいとは決して思えない。まして、そのアメリカの言いなりになっている我が国の歴代政権を支持する気には到底なれない。
 自分の経済政策の失敗を、他国の経済環境のせいにして強弁し、各国首脳のひんしゅくを買ったり、「新しい判断」などと言って公約違反を誤魔化す首相に拍手する気などさらさらない。日本は、卑怯であること最大の恥にしてきた。

 おそらく、これまでの国家の権力者が制定した法や決め事の中で最も秀逸なのは、聖徳太子が制定した「十七条の憲法」ではなかろうか。全文はかなり長く、各条の初めの部分だけを取り上げることが多いのだが、それでも真に素晴らしく、日本人の心が生きているように思う。

 「一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し〜」
 これが日本人の共同体における基本的な思いであろう。「テロとの断固たる戦い」などと粋がって一方に加担し、軍隊を差し向けようとするのではなく、まずは黙って見ている、依頼があった時には躊躇なく仲裁するのが良策ではなかろうか。

 「二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。〜」
 自分のように真言宗に帰依している者にとっては至極自然なのだが、無神論者ばかりの今の時代、何か己の信じるものを求めることが必要ではなかろうか。己を絶対化し、傍若無人に振る舞う政治家諸氏こそ肝に銘じていい条文だと思う。

 役人に対しても、とにかく民衆のために働け、民衆を酷使してはいけない、悪いことしたら処罰する、などと良いことが書かれている。

 各条文とも秀逸なのだが、次の条文は今の時代だからこそ光を放っている気がする。

 「九に曰く、信は是義の本なり。〜」
 しかし、「信無くば立たず」などと、どこかの国の首相になどに言って欲しくない。

 「 十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。〜」
 自戒としている。古来、「不瞋恚(ふしんに)」と言って、過大に怒ることなく、寛容の精神を持つことを美徳としてきたのが我が日本人だった。

 つくづく、自分は保守だと思う。ただし、いわゆる右翼ではない。保守の自分は、政治家、マスコミ、評論家の今の状態をとても好きになれない。

珍しく日記が続く
2016/05/27

 歴史は繰り返すという。
 世は上げて「グローバリゼーション」、それ英語だ、やれダンスだと小学生から仕込み始めた。大学入試だって、英語は読む・書く・聞く・話す4機能の全てを盛り込んで近く実施されることになっている。同盟を組んでやる戦争だったら構わないんじゃないか、と簡単に「戦争法案」を可決し実施する。どうも、日本だけの判断で動いているのではなく、どうやら陰に陽に背後からの大きな力が働いているようだ。

 時代は、さかのぼって明治維新。明治新政府は国作りの根幹として「富国強兵」を進めた。一方では、西洋の科学技術導入のための翻訳の隆盛、果ては鹿鳴館を作り盛んにダンスに興じる「文明開化=脱亜入欧」。

 何か似ている、いや、やはり歴史が繰り返される思いがする。
 明治維新の立役者は薩長の尊皇開国の若き獅子たちや坂本龍馬となっているが、実は裏で絵を描き、彼らを自由自在に操ったのは世界の大富豪=イギリスのロスチャイルドだったというのは今や定説だ。東インド会社を経営するロスチャイルドは、インド産のアヘンを清国に売りつけ大もうけ、断られると今度は武力で清国をねじ伏せさらにアヘンを売りさばく。これが有名なアヘン戦争だ。食料、雑貨だけではなく武器を世界に向かって盛んに売り歩き、笑いが止まらないほどの財をなしたのがロスチャイルド。

 TPPの向こうにあるのは日本の産業、社会構造の一大変革,「グローバル化」の下での教育改革は国家と産業に奉仕するように大学と教育を転換することだろうし、「中国の脅威」、「テロとの戦い」を大義名分に進む軍備増強・同盟関係の強化は、やはり、誰かが背後で策を練り、誰かが忠実にそれを実行しようとしているのではなかろうか。

 やはり、歴史は形が変わり、役者が変わっても、忠実に繰り返される。実に憂鬱な昨今である。

こんなオリンピックなんか
2016/05/25

 自分は「現代」オリンピックの廃止論者である。ナチスドイツの格好の宣伝・国威発揚の舞台となった1936年「ベルリン・オリンピック」の時に、実は「近代」オリンピックは死滅したのだと思う。それでも、その後しばらくは、近代オリンピックの父クーベルタン男爵の提唱したアマチュアリズムは形の上では継承されたものの、旧ソ連はじめとする社会主義国の「国家丸抱え方式」が果たしてアマチュアリズムと言えるのかが疑問視された。これに対抗して欧米主導のプロ選手のオリンピック参加待望論が台頭し、1980年のサマランチのIOC会長就任を契機に、ついに1984年の冬期サラエボ五輪、ロス五輪でのプロ参加の是認となった。ここで、「近代」オリンピック=アマチュアリズム五輪は完全に終焉してといってよい。以降、オリンピックは回を追うごとに露骨なまでの商業主義が跋扈する。

 新国立競技場、五輪エンブレムのすったもんだ、最近になって露見したオリンピック招致委員会の裏工作のための2億3000万円疑惑など、そこまでしても招致し開催しなければならないのはなぜか? そこには、単にスポーツの祭典ではなく、およそ純粋スポーツとはかけ離れた利権・欲得が蠢いているからだろう。

 「汚染の影響は福島第1原発の港湾内0.3平方キロメートルの範囲内で完全に遮断されている」、だからオリンピックは安全・安心だ、と真っ赤な嘘を世界に向けて公言した我が国総理。オリンピックのためと称し、多額の税金を惜しげもなく海外視察旅行につぎ込んだ石原、猪瀬、舛添の歴代東京都知事。五輪に絡む政治・政治家の劣化・醜悪さは、五輪の劣化そのものでもある。

 2020年の東京五輪招致・開催の経済効果はこうだ、あーだ、と自称専門家がはじき出す数字を見て、豊かになる自分を想像できる人はまずいない。大手ゼネコン、大手不動産屋、大手観光業者など、そしてそれに群がる政治家を別にすればだが。また、東日本大震災の復興に伴う資材不足、人手不足、だから、資材・人手の価格高騰は深刻だが、東京五輪関連の工事がさらに拍車をかけるだろう。熊本大震災の復興に一体いかほどが回されるのだろうか。復興がままならない東日本と九州の方々を犠牲にするオリンピックなど、一体いかほどの意味があるというのだ!

 今からでも遅くない、2020年東京五輪を返上すべきだ。さらに進んで、商業主義に汚染され、利権うごめく五輪そのものを廃止すべきだ。少なくとも我が国は、冬季五輪も含めてこの馬鹿げた招致合戦からは永久に撤退すべきだろう。

熊本大震災に思う
2016/04/25

 「喉元過ぎれば熱さを忘れる」には、ある種の長閑さ、楽観さが感じられるが、反面、極めて無責任な、逃避的な態度でもある。

 我々は、1995年阪神淡路大震災、2004年新潟沖大地震災、2011年東日本大震災、そして今回の熊本大震災とこの20年余の間に、4つの大震災を経験し、多くの犠牲者を出してきた。自治体、自衛隊、警察、消防がそれぞれの立場で救援活動をし出来るだけ多くの命を救い、まだ可能な限りのご遺体の回収に努めた。避難場所・食料・水なども遅れや不足も指摘されたが、また、被災者の健康管理も問題とされたが、災害発生時点といては、緊急的には、おそらくはできる限りのことをしてきたように思える。何よりも、忍耐心があり、控えめで、他人への思いやりもある日本人の気質が、大きなパニックを引き起こすことなく災害に対処出来たのではないだろうか。だが、それを良いことに、国も自治体、関係当局は、救援活動、そして、防災活に対して日頃から十分な計画と対策を取ってきたかと言えば、残念ながらそうではないように思う。
 
 簡単な話、もし、今我々の住んでいる町に震度7クラスの地震が起こったとしよう。まず何をする? どこに逃げる? 何を持って? 飼っているペットはどうするり? 体の不自由な人をどうする? 怪我をしたらどうする? こんな単純だが大事なことに、我々は即座に反応出来るだろうか? また、国や自治体は日頃から即座な対処の情報・指示を我々に伝えているだろうか? おそらくそうではないだろう。
 また、我々の住むむ町、住居が地震、津波、台風などの災害に強い、あるいはどの程度ならば耐えられるかという認識をほぼ全員が持っていない。ここでも、国・自治体からは十分な情報提供はないし、情報すら持ち合わせてないように思える。
 要するに、我々は災害に対してはあまりにも無防備なまま毎日の生活を営んでいるのだ。フランスの報道関係者が不思議そうに日本の報道関係者に尋ねたそうだ。「この断層だらけ、地震だらけの日本の国土によく50もの原発を抱えているのはなぜだ?」と。もっともな疑問だ。我々は、大災害の度に、被災地と被災者に思いを馳せ、心から同情し、寄付活動や現地でのボランティア活動はするけれども、それはとても素晴らしいことには違いはないけれども、上から下まで「喉元過ぎれば熱さを忘れ」、災害など自分の町には起こらないのだということを根拠無く思い、あるいは災害に無自覚に毎日を過ごしているのだ。

 今こそ、真剣に防災を考えるべきだ。まずは原発を止め、二度と運転しない、やがては廃炉にすべきだ。地震大国、津波大国日本に原発は不向きだ。福島の悲劇は、「想定外」だったから起きたのではない。そもそも、大自然に向かってその動きを完全に「想定」できるほど我々は進んではいない。「想定」などとは、浅はかな人間の傲慢以外の何物でもない。この5年間、原発なしで我々はやってこられた。経済活動云々も結構だが、まずは生きなければならない。

 次に、自治体レベルで防災機関を常設し、地域の自然災害への耐性の研究と、災害に強い町づくりの計画・立案、各震災レベルでの避難と復帰までの全プロセスの研究・立案、国その他の機関との合同での防災体制と態勢、必要な予算、人員などおよそ考え得る防災計画の計画・立案を行い、災害発生時には直ちに救済・救援活動の中核として機能出来るような組織とすべきである。愚にもつかないような、出来もしないような公約ではなく、有効で実行可能な防災計画と町づくりを掲げる政治家っていないものか!?

 最後に、我々一人一人が、防災意識を持ち、いざという時には、できるだけ自力で自らを守り、他者と協力して災害に立ち向かう「町内防災団」を考慮する必要があるのではないだろうか。

 災害には、「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」位の用心さと臆病さがあってちょうど良いのだ。

前期日程入試の日に
2016/02/25

 弘法大師空海はまだ生きているという。今も生きて禅定(深い瞑想)を続けているという。「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」(全ての生きとし生けるものが幸せになるまで、私は祈り続けます。)とお祈りを続けているという。
 ずっと荒唐無稽な作り話だと思ってきた。そもそも、若い時分から、宗教そのものに懐疑的であるというより忌み嫌っていた自分であるから、こんな類いの話は聞く耳など持っていなかった。

 それが、10年と少し前に、たまたま唐招提寺の鑑真和上の乾漆像と出会ったのを機にコペルニクス的な転向をしてしまった。芭蕉がかの像を前にして詠んだ「若葉して 御目の雫 ぬぐはばや」(青々とした柔らかい若葉で、盲目の鑑真上人の御目もとの雫を、ぬぐってさしあげたい )。芭蕉は、朝廷より招かれて、数度の航海を試みる中で、潮水で視力を無くしたにも関わらず、仏教の戒律を立て直すことに奔走し、挙げ句の果てに捨てられた鑑真への同情を詠んだはずだ。だが、自分は芭蕉とは違った思いに囚われたのだ。「鑑真は泣いてなどいない、悲しんでもいない、僧侶の中国最高位を捨て来日したことへの後悔など無い、そのすべてを超えた無私・無心のお顔だ」と感じたのだ。

 それからというもの、あれだけ嫌だった神社仏閣参りがむしろ楽しみになってしまった。旅行の度に、曹洞宗、臨済宗のお寺、浄土真宗、天台宗のお寺に参った。奈良の法隆寺、東大寺、興福寺など、そして式年遷宮の伊勢神宮、出雲大社も参詣した。仏教だけではない、キリスト教の寺院、聖堂にも出かけた。ミラノでは大聖堂の中で聴いた賛美歌に涙を流してしまった。仏像には足を止め、特に不動明王像に魅了された。

 今では、空海に惹かれ真言宗に帰依している。とはいってもどんな宗派でも、例えキリスト教でも受け入れる真言宗であるから、自分も他宗派には寛大だと思っている。高野山の奥の院には大小20万基といわれるお墓があるが、信長、秀吉は言うに及ばず、互いに殺し合った戦国武将の墓が仲良く並んでいる。キリスト者のお墓があり、外国人のお墓も鎮座している。
 その奥の院、「御廟の橋」を渡り、石段を登ると、千年近く燃え続けていると言われる二つの「消えずの火」がある「燈籠堂(とうろうどう)」があり、その地下に弘法大師空海が禅定している御廟ある。何度かお参りし、手を合わせているが、空海さんは、少なくとも自分には、今なおそこにいらっしゃるように思える。

 今日は、国公立大学前期日程入試。朝、我が家の神棚、仏壇に向かい、全員の合格を祈願させて頂いた。

新年に当たっての夢
2016/01/04

  年が改まった。雪のない、寒くもない穏やかな正月を過ごさせてもらった。もっとも、ここが受験屋の悲しさで、我が受験生諸君は年末年始も変わらず頑張ってくれているかなあ、インフルに罹ってはいないだろうな、などと頭の中はいつもと同じ。さすがに、数学を解こうとは思わないが。

 2020年度を目途に大学入試制度が大きく変わろうとしている。センター試験が廃止され、主に推薦入試で考慮される「高校基礎学力テスト」とセンター試験の後継とも言うべき「大学入学希望者学力評価テスト」が、年に複数回実施されるという。これまでのマーク方式から記述式が多く取り入れる他、英語と国語の融合など教科を横断した「合教科・科目型」ないしは「総合型」入試も検討されている。
 特に、単に知識を問うだけでなく、知識を活用しての「問題発見・問題解決型」の問題が考慮されているという。特に英語は、「読む、聞く、書く、話す」の四技能すべてが対象となり、パソコンあるいはタブレットに向かって解答するIBT(インターネット活用によるテスト)が導入されることが取りざたされている。
 予定では、現在の小学6年生からこの新テストの洗礼を受けることになっている。

 さて、この新テストは、構想が公表された当時は詳細が不明なこともあって、実施に疑問の声が多く、構想そのものに懐疑的な声が多く聞かれたように思うが、この所概ね好意的な意見が多数になってきている。曰く、「安倍内閣はロクなことをしてこなかったが、この新テストだけはまともじゃないか」などと。
 ビジネスの世界では盛んに取り上げられる「問題発見・解決能力」などのフレーズが教育現場には新鮮だったのか、あるいは、英語重視の姿勢が「グローバルな時代」に真にふさわしいと受け止められたかは分からないが、この新テストは、ともかく徐々に各方面に浸透し始めている感がある。

 自分は、共通一次試験が導入された時も、それがセンター試験に変わった時も、試験制度の変更には反対であった。共通一次試験導入の理由は、それまでの大学入試には「難問や奇問」が多い、だった。背景には、一握りのエリート予備軍が独占していた大学の裾野を広げよう、いわば「大学の大衆化=質の高い労働力の確保」という目論見があったはずだ。この間に大学の進学率は二倍以上になり、制度変更の目的は多分達成された。だが、「まともに勉強しなくても」推薦入試でポンポン合格者が生まれ、数V・物理を履修しなくても工学部に進学できるなど、大学入学者の全体としての劣化は明らかだった。大学の研究・教育の質の低下につながるだろう。大学の研究キョーイチ(共通一次試験)の時にすでに大学の将来を憂慮する声はあった。自分もそうだった。

 「人、物、金、情報」はすでに自由に国境を越え、グローバリゼーションと言う名の、実は「アメリカンスタンダード」が我が物顔に世界中を闊歩し始めた。TPP発効により、ますます各国のアメリカ化は進むであろう。2020年度の新テスト導入は、一面ではこの動きと連動しているはずだ。新テストに好意的な評価もまたグローバリゼーション歓迎から生まれている。

 この新テストは日本の大学のあり方を根本から変えるだろう。自分には、あの明治の「富国強兵」戦略を担う国家エリートの教育を狙った帝国大学が重なって見える。事実、新テスト構想は、大学をグローバル大学、職業訓練大学、地域貢献大学に三分化する構想と一体をなしている。新テストをクリアする力を持った一握りの受験生だけが、最高位のグローバル大学に進学しうる。新大学からは文学、哲学、芸術、教育などの文系分野に重きはない。「富」を生まないからだ。大学は、国家の富のためにこそ貢献すべきだ。これこそ新テスト導入の根幹をなしている。

 また、この新テストは、今でも明らかな中央と地方の学力の格差、富裕層とそうでない層との学力の格差を押し広げるだろう。一握りのエリート予備軍は、中央から、富裕層から生み出されるに違いない。予想される問題の記述対策、論文対策、英語対策には多くのカネとヒトとモノ(設備)が必要だ。地方のどこにそれがあるというのだろう。富裕層にとってはおそらく大歓迎に違いない。結果は目に見えている。キョーイチで否定した「難問・奇問」を解くスキルを身につけた一握りのエリートたちと同種の軍団、ただし今度は国家的役割を自覚した者が闊歩するに違いない。冗談ではない、大学は自由な研究と教育の場であって、国家目標の下にあるのではない!

 しかし、自分は受験屋である。例え受験制度がどう変わろうとも、大学がどのようになろうとも、国家の要請とは別の意味で、このグローバル化が避け得ない世界で、自由な意志で己の知識と才能、能力を発揮せんとする若者を、まずはその一歩たる大学受験から生み出したいと思っている。それも、今後30年で人口の半減が言われ始めたこの北海道函館の街から挑戦したいと思っている。「サムライの心を持って英語を話す」という表現が妥当かどうかは分からないが、「アメリカンスタンダード」に流されない強い意識を持った真の国際人をこの手で育てたいと願う。

あくまでも沖縄の海は美しい
2015/11/06

 雪虫が舞ってから3週間近くなったろうか、初雪近ということで大慌てで冬タイヤに交換した人が多かったのだが、このところポカポカ陽気が続き、少しは秋を愛でる気持ちになっている。
 この度、東進の主催する月間向上得点マラソンで、弊社が運営する函館ラ・サール学園前校が全国第一位になるという大変名誉な結果を頂いた。向上得点は、生徒が講座を受講した後の確認テスト(復習テスト)、修了判定テスト(実力テスト)に合格した場合、あるいは、英単語や英熟語の完全習得、数学計算演習などの単元に合格した場合に、その程度に応じて付与される得点で、その多寡が生徒の勉強の度合いを示す指標となっているものだ。だから、函館ラ・サール学園前校の生徒は、10月度は東進にある全国千校余りの校舎の中で最もよく勉強したことになったのだ。寮生が多く、他の東進生のように自宅受講などができない中での全国のトップなのだから、本当に素晴らしいことだと思う。生徒の頑張りに心から敬意を表したい。

 一度だけ沖縄に行ったことがある。やはり澄み切った海の美しさに感動した。沖縄の海の美しさにはサンゴが関係しているらしい。サンゴ礁が砕けてできた白い砂浜が遠方まで続き、光が反射して海が透き通って見えるのだそうだ。さらに、サンゴは光合成で水中の二酸化炭素を吸って酸素を放出し、同時にミネラルも放出することで海が浄化されているのだそうだ。あの海は何時間眺めていても飽きることはないほどの美しさと穏やかさを持っている。気高いと言ってもいいくらいだ。

 その美しい海に、こともあろうに米軍の基地が作られようとしている。杭が情け容赦もなく珊瑚礁に打ち込まれていく。穏やかさが喧噪に変わっていこうとしている。気高さが殺伐さに打ち消されようとしている。それも、「本土」の手によって。
 17世紀初頭に、薩摩藩が3千の兵で琉球に侵攻し、薩摩の属国にしたのが最初の「琉球処分」、それから三百年後に明治政府が廃藩置県により薩摩から取り上げたのが二番目の「琉球処分」、1972年に米軍統治下の沖縄を本土復帰させたのが三番目の「琉球処分」、琉球=沖縄は自らの積極的な意思とは無関係に、「本土」の思惑でその運命を余儀なくされてきた。1945年3月の米軍による沖縄攻撃は凄惨を極めた。「本土」決戦の時間稼ぎのための防波堤とされた沖縄に米軍が殺到し、約10万人の民間人を含む約20万人が犠牲となった。そればかりではない、沖縄を占領した米軍は、住人を銃で威嚇し追い払いそこに広大な基地をいくつも作った。「沖縄に基地があるのではない、基地の中に沖縄あるのだ」とさえ言われてきた。

 そして、アメリカの世界戦略に編み込まれる中での「本土復帰」を向かえる。基地の撤廃・軽減が言われたが、ほとんど実現されることなく、今度は普天間の「危険度」を理由に海兵隊の最新基地を辺野古に作るという。ここでも沖縄県民の意思は無視される。三番目の「琉球処分」は、今なお、否、これからも続こうとしている。

安達君のこと
2015/08/08

 安達君は松岡修造ばりに熱い男だ。志が高く、いつも夢を追ってそれを叶える男だ。青学時代、帰省しては後輩に学生生活を語り、目指すことの大切さを語ってきた。社会人になってからも、忙しい合間を縫って、2,3年ごとに後輩のための講演を引き受けてくれる。「夢の力」を本当に熱く語ってくれる。「夢を持ちなさい、そして、その夢を持ち続けなさい、必ず夢は実現します。」と。自分も生徒たちも中からこみ上げてくる不思議な力を感じる。今回も素晴らしい講演だった。

 安達君は今年36歳だ。青学に進んだものの「超就職氷河期」でシュウカツは大変だったと思う。だが、用意周到な彼は、足で100以上の企業を回り、大人気企業の電通はじめいくつかの企業から内定を得た。彼が選んだのは松下電器(現在のパナソニック)だった。海外に飛び出したい、そして、「世界一のビジネスマン」になりたいという彼らしい選択だった。 

 入社当初から海外出張を繰り返し、韓国だけでも110回にも及んだ。その後、かねてからの希望である海外勤務を果たし、フランクフルトで2年、パリで1年間、とにかくパナソニック製品を売りまくった。その間、オーストラリアでMBA(経営管理学修士号)を取得した。彼はとても勤勉な男である。

 一流の営業マンとして成功した彼が次に目指したのは「経営」だった。「世界一のビジネスマン」から「世界一のエグゼクティブ」への新たな夢を抱き、大いに惜しまれながらパナソニック社を去った。次の戦場は、かのユニクロを展開するファーストリレイリングだった。彼は、わずか1年半で、会長直轄の「事業経営支援部」のリーダーとなった。ニューヨーク、モスクワ、パリ、相変わらず彼は世界を飛び回る。得意の英語を駆使して。
 安達君の言行はたくさんの後輩たちに勇気を与え、彼に続く人材を生み出している。受験屋などというしがない仕事をしている自分だが、教え子たちが各分野で活躍する姿を見聞きするのは望外の幸せである。今度会ったときの安達君はどんな夢を持っているだろうか。

高野山にお参り
2015/06/01

 ずいぶん長い間ご無沙汰してしまった。何度か書きかけたのだが、受験の忙しさと募集の慌ただしさで中断し、載せることができなかった。ま、言い訳だが。

 良い季節になった。北海道の今の季節は何もかもが素晴らしい。春の実感にほんの少しの初夏の気配、気分が高揚するでもなく何か穏やかになれそうな感じがとても良い。

 先日、開基1200年で賑わう高野山に出かけた。真言宗徒ではあるが、聖地である高野山=金剛峯寺参りは初めてだった。我が受験生のために合格祈願をしようと思い立ったのだ。
 高野山の中心となる壇場伽藍では、金堂の秘仏で今回初めて開帳となる薬師如来像にお会い出来た。これ以降開帳予定はないそうだから、良い時に来たものだ。また、根本大塔では、宗祖たる弘法大師空海の手による立体曼荼羅の世界=宇宙の迫力・迫真に驚嘆し、言葉も発せず、涙がこぼれそうになった。当日は、お大師様がご入定(にゅうじょう)なさった日であったので、法会が盛大に執り行われていたせいもあり、人、人、また人であった。
 有名な奥之院にも参拝した。手を合わせて「一の橋」を渡り、約2キロ先の「御廟の橋」に至る、ここから先はお大師様の御廟の霊域とされ、写真撮影、私語、飲食、帽子すべてが禁止、往きも戻りも合掌しなければならない。正面に灯籠堂があり、この日は法会の読経が続いていた。お堂を巡ると裏手が、今なお空海が生きて、一切衆生のために修行していると信じられている御廟がある。「南無大師遍照金剛」と合掌し祈願する。

 かつての無神論者も受験界に身を置き、切った張ったを繰り返すうちに、人智を越えたものを実感するようになった。今では、神棚、仏壇に頭(こうべ)を垂れる毎日である。

 さて、物騒な時代に入ったものだ。どうこじつけても憲法前文、第九条からは交戦権はもちろん戦争支援などあり得るはずもない。戦後レジーム(体制)からの脱却を目指すアベ総理が、戦後の出発点とも言える「ポツダム宣言」を読んだこともないことが暴露されたが、このような浅はかな人間が自衛隊の最高司令官となって「戦う」体制を作るというのだから、国民もずいぶん嘗められたものだ。
70年安保以来、大学生は「物わかりのいい」体制派になった感がある。どうだろう、今進められている「戦争ができる日本」の是非をよく議論して、少しは元気を見せて欲しい。自称、他称「左翼」に限らず、心ある国民の冷静な判断に期待したい。

これからも難問かな
2015/02/01

 北海道の北東に低気圧が居座り、道東は猛吹雪が続く。函館に限れば今のところ暖冬だが、何しろ冬だ。まだ分からない。

 今年のセンター試験の新課程数学UBはきつかった。「7倍角」も驚きだが、ベクトルその他も厳しかった。二次試験の数学対策をしっかりやっている受験生は乗り切っただろうが、センター試験の標準問題対策だけを意識した、とりわけ文系受験生には過酷だった。
 英語は、コミュニケーションに関わる出題が印象に残った。英数共に、5年後のセンター試験廃止=新テスト施行をにらんだ試みに思える。新テスト、とりわけ、発展問題の「大学入学希望者学力評価テスト」は、成績を段階的に評価するため、優劣を明確につけるかなり難しい内容になるのではないか。我ら、予備校と大学を目指す高校生は心してかかるべきだ。

さて、「イスラム国」は、邦人二人を殺害し、日本人の更なる殺害まで予告してみせた。二人の長きに渡る死の恐怖、ご家族の心労と無念さはいかほどであったろうか。この虐殺はいかなる理由があろうと正当化されるものではない。

 二人の自己責任であるとし、殺害に冷淡な人もいるようだが、冗談ではない。渡航の目的が取材であろうが、観光であろうが、ビジネスであろうが、およそ日本国民は政府によって海外での安全を保護されることは「外務省設置法」にも明記されている。目的で左右されることなどないのだ。「救出に最善を尽くす」のは当然だ。

 むしろ責めを負うべきは、我が国政府の長たる安倍首相の言動だろう。安倍氏が日本の最高指導者であることを残念に思う。早くから、湯川氏や後藤氏の人質の事実、身代金交渉のなり行きの詳細を知りつつ、イスラエルの旗の前で「テロリスト=イスラム国」との戦いを強調し、エジプトのカイロでは、「イスラム国と戦う国」への2億ドルの援助を宣言する無神経さはまともなことか。二人が殺害されてもなお「テロリストへ罪を償わせる」と公言する無邪気さを恐れる。いくら人道支援を強調しようが、「イスラム国」への報復=宣戦布告ではないとは言わせない。米英の有志連合に加わって、戦争を支援するだけでなく、戦争そのものを始めることなど国民の多くは支持しまい。

 テロを支持する国民などいない。同時に、基本的にはキリスト教徒とイスラム教徒の十何世紀にも及ぶ戦い、オスマン帝国崩壊後の支配地域の分配を巡るイギリスの「三枚舌外交」による現代アラブの混乱に、「テロとの戦い」のスローガンの下積極的に加われという国民もいない。黙って見ている、どちらにも与しない、これこそ「積極的平和主義」であると知るべきだ。

 お二人のご冥福を心からお祈りする。

新年雑感
2015/01/02

年が改まった。お陰様で、穏やかな正月を過ごさせていただいている。 冬至から10日ほど経って、日の長さを少し感じるようになった。これから夏至までの半年間は長くなる一方だと、心が軽やかになるが、北国の寒さはこれからだと思い直してしまう。それにだ、センター試験がすぐあるじゃないか、私大入試、前期日程入試、それに・・・。

若い頃は、誰もそうかもしれないが、神社仏閣、仏像の類はご勘弁を、だった。神も仏も全否定だった。姿も形もなく、おまけに罪だ、罰だと言われると無性に反発したものだ。

50代になった頃、鑑真和上の乾漆像と対面した。かの芭蕉は、「若葉して 御眼の雫 ぬぐはばや」と、度重なる日本への船旅で盲目となった鑑真和上を詠んだ。慈愛に満ちた素晴らしい句だ。だが、自分はそうは思わなかった。鑑真像に悲しさはない、涙も見られない。中国随一の高僧を捨てた後悔もない。あるのは、怒りも悲しみもあらゆる負の感情を飲み込んだ、穏やかさと深い満足だと思った。思わず合掌した。何かが、自分の中で変わっていく気がした。

かつての無神論者は、今では弘法大師空海の世界に憧れる。我が受験生のためにお祈りをしようと思うようになった。毎朝、神棚、仏壇に向かって般若心経と幾つかのご真言を唱えるようになった。年をとっただけとは思えないのだが。

さて、教育の世界も大きく変わろうとしている。グローバル化の是非を問うこともなく、大学そのものが再編されようとしている。グローバリゼーションの世に役に立たない大学はやがて捨てられよう。効率、コストパフォーマンスが全面に押し出され、研究・教育が国家目標、ある政権の下で生き長らえざるを得ない状況は、果たして「改革」という名の進歩なのか? 受験屋風情の「田作の歯ぎしり」と思われようが、このにわかに「きな臭く」なりつつある社会で、少しは吠えてみたいと思う。

学力低下を憂う
2014/10/27

 我が日本ハムファイターズのCSでの驚異的な粘りには心から感服した。特に、ファイナル第6戦の0−4からの逆転勝利には鳥肌が立った。来年こそ、リーグ優勝と日本シリーズ優勝を期待したい。大谷、頑張れ!

 さて、センター試験の廃止=「大学入学希望者学力評価テスト」と「高校基礎学力テスト」の新規導入が本決まりの気配だ。自分は、しがない受験屋風情だが、今度のお上のやることには大反対である。

 「大学入学希望者学力評価テスト」(以下「評価テスト」と略す)は、現行のセンター試験に代わるテストで、結果を1点刻みの点数で示すのではなく、A,B,C、Dなど一定幅の段階評価とし、大学ごとの2次試験は面接や論文を重視するようにしなさい、ということらしい。「高校基礎学力テスト」(以下「基礎テスト」と略す)は高校での学習定着度をみるテストで、現在の高認試験(旧大検)程度の難易度にして、大学の一般入試には直接利用しないが、試験結果は推薦入試やアドミッション・オフィス(AO)入試の資料にしなさい、ということらしい。また、この二つのテストは、高2の秋、冬、高3の秋、冬の各2回ずつ実施し、得点の高い方を採用することになるらしい。

 おそらくは、アメリカのSATやACTという年間複数回受験できる統一テストと、大学独自のAO入試を夢想しているのだろうが、我々は、アメリカの試験制度を猿まねして大失敗した例を間近に見ている。アメリカの司法試験制度をほぼ猿まねしてスタートした司法医試験制度のさんざんたる失敗がそうだ。法科大学院の乱立、授業レベルの低さなどが原因で当初80−90%程度の合格率をと意気込んだものの、現在では20%台と低迷し、法科大学院の閉鎖、廃校の危機を抱えている。救済措置であった法科大学院を経ない試験による合格者が急増し、法科大学院の意義そのものに疑問が生じている。さらに、日本が、お上が想定したアメリカ型の「起訴社会」にはなっていない(日本人は争うことが嫌いだ)ことから弁護士の需要が増えず、急増した司法医試験合格者の多くは行き場がない有様なのだ。お上が「改革」を言うとき、まず失敗するものとみてよい。

 ところで、「基礎テスト」程度で受験生を受け入れる大学はいかなる大学か?無論、その大学に入学生をきちんと指導し、高度な知識を持たせて卒業させられえるシステムと能力・技術・教授陣がいるなら話は別だが、まず聞いたことはない。現在の推薦・AO入試合格者よりも程度が悪い生徒を大量に大学が引き受けて一体何をしようというのか?

 また、「評価テスト」だが、難易度は現行センター試験と変わらないらしい。ただし、1点刻みで評価する現行方式ではなくA,B,C,Dなど一定枠での評価することでいくつかの問題点が生まれる。まず、東大、京大、医学部など難関大学受験者のほぼ全員が段階Aに入り、ここでの差はつかないから、2次試験勝負となろう。それでは、難問・奇問が多いからという理由で導入された共通一次試験=センター試験は一体何だったんだ?また、面接、小論文を重視しろと言うが、企業の就職面接試験ですら問題を抱えているのに、大学の教授たちが果たして何千人もの受験生を限られた時間で人物評価できるのだろうか?そもそも、無口、口べたな受験生は正当に学問的な能力を評価してもらえるのだろうか?一体に理系受験生は文章表現が下手だが、小論文で公正、公平に判断することは現実的なのだろうか?

 さらに、この段階評価は新たな大学格差を生むだろう−−Aレベル大学、Bレベル大学、・・・・、最低レベル大学! まさか、文科省はこれを狙っているのではあるまい?

 そして、複数回の受験だ。なるほど一回の試験のミスを次の試験でカバーできるメリットはあるだろう。だが、高2の秋からの受験となると、高1の早い時期から受験対策が必要となり、大都市の「中高一貫」高校が圧倒的に優位になり地域間の格差がますます拡大するだろう。また、高校の部活、生徒会、ボランティアなどの行事、活動は明らかに停滞するだろう。もっとも、高校生にとにかく勉強させたい、部活などどうでもいいというのが趣旨ならば、何もセンター試験をいじることはなかろう。やろうと思えば他にいくらでも方策はあると思うからだ。

 今回の「改革」で予備校が繁盛するという批判もあるようだが、おそらくそうはならないだろうし、つくづく余計なお世話だと思う。この「改革」に伴う推薦枠、OA入試枠の拡大と易化は予備校・学習塾の役割を「Aランク大学」対策だけに限定してしまうだろう。旧大検レベルの「基礎テスト」に予備校など不要だからである。それはそれで良いし、予備校=悪者のレッテルを貼り続けてきた人は大喜びするだろうが、大学入学者の劣化こそ問題にされるべきだろう。

 自分は、センター試験すら反対である。1979年の共通一次の導入以来、何か一つでも良いことがあったか?寡聞にして、日本の高校生、大学生の質が向上した話など聞いたためしがない。生物はやったが、物理は習っていない。数Vなしで工学部に入学する、などなど仰天の連続だ。お上が余計なことに口を挟まず、各大学が独自の入試をやればいいのだ。有る大学は難問を課しても良いし、別の大学はそれこそ面接だけで決めたっていいのだ。要は、それぞれの大学がどんな学生を求めるのか、それをはっきりした上で、それに相応しい入学テストを行えば良いのだ。
 だが、多分、お上が決めた「評価テスト」、「基礎テスト」導入の流れは変わらないし、センター試験そのものの廃止もない。例えそうであっても、受験屋である自分は、受験生がある限り、彼らの学力の向上のために全力を尽くすだけである。
 

大沼は緑の中
2014/06/23

大沼はすべて緑の中にあった。目に染みるほど緑、また緑だった。
5月初旬に来たときは、あいにくの雨模様で駒ヶ岳が遠くに見えていたが、今回は間近で楽しむことが出来た。麓の緑と中腹の赤っぽい山肌、頂上付近の黒っぽさがよく似合う。

冷夏の予想
2014/06/19

 あと二日で夏至。NHKばりに言えば「6月21日は、二十四節気の一つ「夏至」です。一年のうちで最も昼が長い日で、きょうを境に次第に日脚が短くなっていきます。」といったところだ。この日から15日ごとの「小暑」、「大暑」を経て「立秋」となり暦の上では秋、もちろん8月8日で秋はないだろうから、次の「処暑」続く「白露」でやっと実際の秋を実感することになる。

 今年は「冷夏」との声が聞かれる。「エルニーニョ現象」のせいだという。遠く離れた太平洋赤道域付近から南米のペルー沿岸にかけての海面水温が高くなり、その状態が1年程度続く現象をいうのだが、これが日本の気候に与える影響が大きいのだそうだ。太平洋赤道域の東側の海面水温は上昇する、太平洋熱帯域の西側では海面水温が低下して対流活動が衰える。このせいで、太平洋高気圧の日本付近への張り出しが弱くなり、日本の夏の天候は低温、多雨、寡照となる傾向が生まれるのだそうだ。
 地球規模のスケールの大きな話ではあるが、5年前にもこのエルニーニョを原因とした冷夏を経験している。8月の平均気温が平年を0.8度ほど下回っただけなのだが、立派に冷夏の基準を満たし、それまで余りにも暑い夏が続いていたこともあって、冷夏の実感が強かったと見える。

 冷夏で得する人、損する人という区分けは不遜な感じはするが、比較的はっきりするだろう。我ら受験屋および受験生は冷夏歓迎派の筆頭だろう。猛暑と受験勉強ほど合わないものはない。エアコンが普及しているとはいえ、一歩もエアコン完備の勉強部屋から出ないというわけにはいくまい。まして、北海道はエアコンと無縁な建物がほとんど、しかも大のエアコン嫌いだって多い。自然の涼しさの中で勉強できるのはこの上なく効率が上がることは間違いない。

 だが、5年前は、米や野菜が低温、日照不足、大雨で育たず、豪雨、台風が頻発し各地で大きな被害が出た。今年もその再現が言われている。やはり、冷夏は困りものだ。だが、人がいかに願おうと、自然はその思惑などお構いなしに自己主張する。せめて、自然を超克したかのような傲慢さなど微塵も持たず、自然に抱かれ、自然の恵みで生かされている思いを持つことが必要なのではないだろうか。

お山にも春が
2014/05/12

休みで時間がとれるときには、東山山中の鏑射寺函館別院に参詣することが多い。3週間前に来たときには木蓮の花が満開だったが、今回は山桜がほぼ満開になっていた。木々の葉もだいぶ多くなり、木洩れ陽が心地よかった。小川の清涼な水音にしばし足を止めて聞き入ってしまった。

大覚寺にて
2014/05/08

ゴールデンウイーク真最中の大覚寺は不思議なくらい静寂だった。同じ嵯峨野でも、JR嵯峨嵐山駅を出て左に進む天龍寺、渡月橋に多くの観光客が向かい、もちろんトロッコ列車、保津峡は大盛況なのだ。お陰で、大覚寺では急かされることもなくゆったり時間を過ごすことができた。
大覚寺には三つの顔があるように思える。
一つは政治の顔。創建された平安時代初期には嵯峨天皇の離宮であった。鎌倉時代には、院政の御所となり、南北朝時代を経て南朝最後の天皇・後亀山天皇からから北朝の後小松天皇に「三種の神器」を引き継いだのも大覚寺だった。
一方、嵯峨天皇の盟友であり師でもあった弘法大師空海が、離宮に五代明王を御堂に安置し修法を行ったことから真言宗の布教の拠点となった。以後、真言宗大覚寺派の本山として現在に至っている。
三つ目は、文学・芸術の顔。「滝の音は絶えて久しくなりぬれど なこそ流れてなお聞こえけれ」は、嵯峨離宮の滝殿の石組み跡で歌人・藤原公任(きんとう)が詠んだものだ。さらに、狩野山楽が襖絵「四季耕作図」を描き、狩野永徳もまた「松に山鳥図」を描いた。「四季耕作図」は何故かアメリカに渡り、大覚寺で見られるのは複製である。

数年前、縁あって真言宗に惹かれ、真言宗ゆかりの寺院を訪ねることが多くなった。空海も舟遊びをしたという境内の大沢の池の畔に佇み、しばし千数百年の昔に思いを馳せた。嵯峨天皇と空海はここで何を語り合ったのだろうか。

 写真は、勅使門(おなごりの門)、狩野山楽の牡丹図(重要文化財)、大沢の池

合格祈願
2014/04/20

久しぶりに東山明の方の明芳寺をお参りした。本山は兵庫県三田の鏑射(かぶらい)寺、真言宗のお寺だ。明芳寺には数年前まで見事な不動明王像があったが、今は本山に移り、これまた見事な毘沙門天像が鎮座している。参道には、七つの観音様を祀るお堂が並んでいる。ひとつひとつをお参りし、本堂の前で不動明王と毘沙門天のご真言を唱える。我が校生徒の学力伸長、合格を祈願した次第だ。
写真左は本堂、中は参道から望む函館山、木立に隠れているがお分かり頂けると思う。右は、七つの観音堂。山にはまだ雪が残る。

春はいずこに?
2014/03/21

 変な3月だ。少しだけ降る雪を見て、ああ、なごり雪だなあ、なるほど心なしか風も優しいなどと思ったのも束の間、その後真冬並みの寒さに逆戻り。これを2度ほど繰り返した後、今日もまた吹雪に。一体いつになったら春を実感できるのだろうか。

 わが校の生徒たちには一足先に春がやってきた。合格のご挨拶にお見えになる保護者様と生徒の喜び溢れる様子に、この仕事をして本当に良かったと実感する。もっともこの時以外は苦闘の日々だが。

 ところで、あまりにも前政権がひどく、選挙で棚ぼた式に大勝利で政権をつかんだ現政権だが、露骨なまでの「右旋回」を始めた。反中国、反韓国・北朝鮮の国民的感情が醸成されつつあるのいいことに、集団的自衛権なる戦争準備を急ピッチで進め始めた。憲法9条の拡大解釈には政権党ですら反対があるにも関わらず、野党の弱腰を見込み、かつまたアベノミクスとやらの景気回復で国民にもまた反対し難い雰囲気があるのを見越し、閣議決定・国会議決を極めて強権的に推し進めている。

 沖縄滞在中に思った。太平洋戦争末期に、ここで当時の県民の4人に1人が犠牲になったが、一体誰のために?時の日本軍事政権は、本土決戦の準備のための時間稼ぎに、沖縄県民を犠牲にし、沖縄を焦土と化してしまったのだ。それでも沖縄の人たちは一様に優しかった。戦争の悲惨さと辛さを知る人ならではの優しさだった。
 政権党が進める集団的自衛権は、間違いなく沖縄の米軍基地を固定化するか、やがて国防軍となるであろう自衛隊がその肩代わりをするかのどっちかだろう。もちろん、本土もまた戦争の準備が、最初は徐々にやがて誰も止められない勢いで進められるだろう。アベ軍事坊ちゃん政権に鉄槌を、と思う人は少なからずいるであろう。富裕層、東京、大企業だけの見せかけの景気回復に騙されて、いつか来た道を歩まされるのだけはご免だ。

年の終わりに
2013/12/28

 ノブレス・オブリージュ(優れた者が負うべき義務)を掲げて31年の歳月が流れた。「ミーイズム」、「利己主義」、「唯金主義」が肯定的に語られることが多くなってきたこの時代に、ノブレス・オブリージュを声高に語ることは、時代錯誤やエリート主義とのそしりを免れないことでもあった。

 一介の受験屋に過ぎない自分が、学力の伸長=希望大学合格に留まらず、生徒に対して、やがて社会のリーダーとなるべき気概、組織成員を幸せにする義務、他者への寛大な精神を啓蒙することは、大いなる越権であったかもしれない。だが、幸い生徒の多くは「塾長の過激思想」を寛大に受け入れてくれたように思っている。大学を卒業し社会人となった我が学舎の卒業生の多くが、「社会貢献」を堂々と語ってくれることに望外の幸せを覚えてしまう。受験屋稼業の生涯現役を誓い、己なりのノブレス・オブリージュを果たす決意である。

 さて、この何年間、生活保護受給者、年越し派遣村などへのバッシングがあり、さらに、現政権下での特定秘密保護法、国家安全保障会議設置法の改訂、集団的自衛権の拡張解釈、果ては憲法改訂論の跋扈など、一方では社会的弱者の排除、他方では権力者の基盤強化への賛意など、ドイツ・ナチス党の台頭の時代に近似した状況が生まれつつある。弱者の差別と権力者への迎合こそ国家・社会の危機であることを今こそ自覚すべきではないか。

 ともあれ、今年も、生徒、保護者各位のご理解とご協力、高校関係者の温かいご支援、OB諸氏の激励に支えられて終えられそうである。心から感謝したい。年明けにはセンター試験が待っている。さらに、私大入試、前期日程入試と受験生には息もつけないほどの激戦が続く。負けてなぞいられない。春には合格の二文字が躍っていることを確信している。

本当に怒っている!
2013/12/03

 11月前半の初雪の後函館はいったんは白い世界となったのだが、その後たまに降るものの長くは続かず、今ではすっかり解けて少しぼんやりした師走を迎えたような気がする。

 特定秘密保護法はさしたる抵抗もなく衆院を通過した。愚かしいまでの政権運営の破綻で二つの国政選挙で国民から鉄槌を食らい、どん底まで突き落とされた民主党は何一つ見せ場を作ることもなく「恥を知れ」と罵るだけで法案通過を見送ったのだった。
 元々自民党の友軍である維新の会とみんなの党は与党にすり寄って法案修正なるものを得てどうにか存在をアピールし、他の野党もほとんど為すところなく法案の衆院の通過を許したのだった。与党幹事長たる石破某に至っては、「反対のデモはテロ行為」とうそぶき、余裕を持って恫喝してみせた。

 腰砕けの野党もそうだが、許しがたいのは我が三流・四流マスコミだろう。かつて異常なまでの反小沢一郎キャンペーンを張って、彼を政界の片隅に追いやったあの勢いを今回の法案に対しては見せることはなかった。「国民の知る権利」の侵害だ、新聞記者が逮捕される、と泣きを見せるのがせいぜいだった。もし彼らが真に「言論への許しがたい弾圧」だと思うなら、なぜ、社運を賭けた一大反対キャンペーンを張り、世論をして法案を破棄せしめるだけの一大国民運動を盛り上げようとしなかったのか! おそらくこの法案の成立とともに、日本のマスコミは最終的な死を迎えることになるだろう。だが、それは国民には大いなる不幸である!

 たかだか受験屋風情がその本分を離れてこの特定秘密保護法成立に危機感を抱くのは、この法律の本質は、同時に衆院を通過した国家安全保障会議設置法(日本版のNSC設置法)と並んで、日本をファシズムに導く悪法に他ならないからだ。
 軍事、外交、治安のほぼすべてを国民の知らないところで進め、干渉したものは遠慮なく弾圧していく、これは想像しただけでも震えが来る。戦犯たる祖父・岸信介に憧れる軍国お坊ちゃん=安倍首相が目指すのはアメリカを背後に従えた東アジアの覇者への道であろう。反中国、反北朝鮮、反韓国の機運は静かに我が国民の間にも浸透しつつある。ファシズムは為政者だけが進め得るのではなく、国民の暗黙の、時には公然たる支持があって始めてなしえるものだ。かつて合法的に政権を奪取しドイツ版ファシズムへの道をひた走ったヒットラーとナチスを想起せよ! 特定秘密保護法と国家安全保障会議設置法の衆院通過に断固抗議する!

伊豆大島の災害に思う
2013/10/19

 台風26号は、伊豆大島で19名の命を奪いその2倍もの行方不明者を生んだ。台風は自然にとってはごく普通の「熱交換」に過ぎないが、我らにとってはまさに猛威であろう。我らは、絶えず自然の”神秘”を解明しようとし、時には自然を利用し、時には自然と闘い、その過程において自然をあらかた克服したように錯覚してきたのではないだろうか。

 大島の町長が住民に避難勧告・命令を出さなかったことが非難されている。しかも台風が接近し異常な大雨が予測されている中で、副町長ともども出張で島を離れていたことも併せて攻撃され、避難マニュアルのあいまいさ、認識の甘さが一斉に指摘された。住民の生命・安全を真っ先に守らねばならない長として、この批判に関わらず慚愧に耐えない思いであろう。だが、一人を批判して済むほど伊豆大島で起こった出来事は軽くはない。

 オリンピック誘致成功で浮かれることに水を差すつもりはない。束の間の株高で思わぬ大金を手にして喜ぶ風潮をけなすつもりもない。だが、我々の命と生活の安全に関わる具体的な議論も、お金も棚に上げてのそれであれば話は別だ。自然はいつだって”想定外”である。自然に畏敬の念を持ちつつ、災害対策を何よりも優先して、技術も人力も財力も集中する必要があるのではないだろうか。

 閑話休題。伊勢神宮にお参りして本当によかったと思う。多少なりとも傲慢な自分が、少しは謙虚になれそうな気がする。無論、我が校の受験生の合格をご祈願させていただいた。

ヒトは自然を克服したか
2013/09/03

無力だと常に思うこと。
どうあがいても自然には到底叶わないと思うこと。
自分が工学の末席を汚すに過ぎなかったから言うわけではない。いわゆるゲリラ豪雨、竜巻、台風、地震、そして原発事故、一体何を持って人間の優位性を主張できようか。
自然災害の原因はわかっても、例えば、地震発生のメカニズムは分かっても、地震を防ぐことはできない。竜巻、台風もまた同じ。災害が起こった時どうするか、その後の我らの生活をどうするのか、繰り返し災害は起こっても、そして「教訓化」はその都度叫ばれても、何か前進したことがあったろうか。
確かに福島の原発事故は「自然災害」ではない。だが、原発の原理たる「放射性物質の核分裂」は、人間が自然を最大限利用する、いや、自然を制御しそれを超えるという、自然に対する人間の愚かなまでの傲慢さの結果ではなかったろうか。
決して真面目な学生ではなかったが、初めて原発の理論を知った時、その単純ながらもほとんど無限ともいえるエネルギーが得られる可能性に驚くと同時に、ほとんど同時に生まれるほとんど制御不可能な放射性物質及び核燃料の「ゴミ」への無邪気なばかりの楽観に驚かざるを得なかった。「人は未来永劫に原発を制御できない」、多分、原発創世記にそう思った人はどれだけいただろうか。
時代は巡って、今、福島。
昨年、時の権力者たる野田何某が原発の収束宣言をした時の驚きと憤りを思い出す。そして、新しい政権でもそれは変わらないばかりか、原発推進が威丈高に語られ始めた。福島原発事故は本質ではなく何かちょっとした間違い、多分それは東京電力という企業の怠慢だったからだ、それに、想定外の地震と津波のせいだ、ちゃんとやったら多分大丈夫だ。なるほど、だが自然はいつでも想定外だし、技術は常に後手であり、何より、放射能というパンドラの箱から出た「悪」を閉じ込められることができないことは、今も続き、間違いもなくこれからも続く福島原発の「汚染水」を巡る大混乱をみれば明らかだ。
ヒトは自然には敵わない。経済効率云々など主張することすらおこがましい。せめて、これを認め、自然に首(こうべ)を垂れて我らが進むべき道を探るべきではなかろうか。

夢のちから
2013/07/26

 我が第一ゼミナールOB会の会長である安達史紀(ふみのり)君を講師に迎えての講演会は大盛況だった。浪人生に加え夏期講習中の現役高校生も参加し、二階大教室は立錐の余地もないほどだった。
 北海道のベストイレブンになるほど打ち込んだサッカー三昧の有斗高校時代、そして当然ともいえる大学受験の失敗、猛勉強で知られる第一ゼミナールでの「カルチャーショック」寸前の浪人生活、その猛勉強の甲斐あっての青山学院大学・経営学部への合格、超が三つもつくほどの就職氷河期での松下電器産業(現パナソニック)への入社、「国際企業戦士」としてドイツ勤務とパリ勤務、そのひとつひとつを実に丁寧にしかも熱く語ってくれた。
 自分は、安達君を「石田学校の優等生」と呼んでいるが、「世界一のプロフェッショナルになって社会に貢献したいのです。」と言い切り、それに向かって努力を欠かさない彼は、自分をはるかに超える「優等生」に違いない。講演の最後に、「志を強く持てば、夢の力は君たちを導き、君たちの夢はは必ず実現する」と力説し、グローバルな時代を、よりグローバルな精神で駆け抜けていけと後輩たちを激励してくれた。この講演を聴いた後輩たちが第2、第3の安達君となって国内外で活躍する日がとても楽しみだ。

 さて、受験の天王山=夏、高校生は学園祭やら帰省やらでこのところかなり学習量が落ちている。全国の東進の中でも最も勉強する東進のひとつと言われる函館杉並校とラ・サール学園前校だ。天王山の戦いに必ず勝利するため、これからギリギリとネジを締め上げていきたい。

天王山で
2013/07/11

 この夏、我ら受験屋が好んで使う決め言葉といえば、「夏休みは受験の天王山」であろうか。夏休みの勉強次第で来年の大学入試の合否が決まる、といった意味なのだが、「天王山」は勝敗や運命の重大な分かれ目という意味で広く使われている。もっとも、近頃の「今でしょ!」に少し負けている気がするが・・・。
 
 この天王山だが、生徒の多くが意外と何なのかが分からない。「天皇の山」とか、「天の山(”う”はないらしい)」とか言って、それで納得している生徒もいた。関係あるはずの日本史選択の生徒の中にも「?・・・?」がいて、本人の名誉のために言うが、これで日本史の成績はかなり良いのだ。

 天王山は、京都府南部,大阪府との境にあたる標高270メートルほどの丘陵だ。古来、淀川水運や山陽道などの水陸交通の重要地点であったが、一躍有名になったのは、京都・本能寺で織田信長を討った明智光秀とその仇討ちを果たそうとする羽柴秀吉が戦った”山崎の戦い”であろう。1582年のこの戦いでは、天王山を制圧した者が勝者となり、天下を取ることになるとして「天下分け目の天王山」と言われた。
 敗走する光秀は、落ち武者狩りの土民に竹槍に刺されて絶命したといわれているが、力尽きて切腹して果てたとも言われている。一方、勝者秀吉は、「清洲会議」を経て信長の後継者として天下統一に向かった。いつの時代も勝者と敗者の落差はとてつもなく大きい。

 さて、受験の天王山の夏だが、わがシニアクラス・浪人生たちは、一日12時間学習に挑戦することになる。東進の学習バロメータである「向上得点」で、全国900校舎のベスト10の常連ではあるが、高く高く掲げた志望大学合格にはまだまだ不十分だ。日焼けして逞しくなるのではないが、逞しい学力を獲て、勝利を予感する秋を迎えて欲しい。
 また、このところ、これまた向上得点で全国ベスト10に入るなど伸長著しい高校生にも「天王山」を戦い抜いて欲しいと切に願う。

 ところで、日ハムの大谷選手のプロ第一号ホームランは本当に見事だった。うーん、「二刀流」、また迷いが出てしまう。

今でしょ!
2013/07/01

 「いつやるか?今でしょ!」は、近年まれに見る大ブレイクとなった。現代文の林修先生始め東進の講師の方々が「ネプリーグ」、「金スマ」、「笑っていいとも」などテレビに出ない日が珍しいほどだ。
 予備校の先生というと、高校の勉強方法を批判し、偉そうに独自の受験勉強を語るイメージがあるが、かの東進の講師はありのままの自分をさらけ出し、国語の先生といえども漢字を間違い、数学の先生はといえば誰でも答えられそうな常識問題を間違い、入試のプロなのに決して冷静沈着ではなく、あわてふためき珍回答、無回答ですべったりする。少しだけ頭が良いかもしれないが、少しだけ常識に欠け、結構おもしろい、その辺にいるオヤジ、アニキって感じなのだ。小学生から高齢者まで広く人気を集めているのも分かる気がする。
 その東進の講師の一人、英語の安河内哲也先生を招くことが出来た。予備校の授業、講演、執筆に加え、このところのテレビ出演で、超が三回付くほどの忙しさなので、なかなかお越しいただけないのだが、スケジュールをやりくりしていただいてこの度の「特別公開授業」の実現となった。
 想像していたとおり、明るく爽やかで元気いっぱいの先生の授業は、まさにコンサート並みのライブ感にあふれ、あっという間に90分間が過ぎてしまった。圧巻は、全員起立した上での大声上げての英語長文の音読であった。参加した生徒は、英語の学習方法の斬新さに打たれ、また、英語学習の真の目的に感銘し、この日を境にさらに英語の研鑽に励むことを決意したように思えた。また、予想を超えてお集まりいただいた保護者の方々、高校関係者の方々にも、これぞ東進の英語学習ともいうべきものをご理解していただけたと思う。
 ところで、これは「役得」だが、授業の後の「懇親会?」で、先日放映された「ヤンキーとの対話」やテレビ出演の裏話をお聞きした。中身は?ヒ・ミ・ツ。

嘘は方便?
2013/06/14

 「嘘も方便」という。「方便」とは、仏教用語で、一般大衆を仏教の真の教えに導く為に用いる仮の手段のことだ。日本野球機構(NPB)は嘘をつくことで、何を選手やファンに教え、何の利益をもたらしたのだろうか?

去年、一昨年のプロ野球は、統一球=飛ばないボールを中心に回ったと言って良い。わざわざ飛ばないように規格・製造したから当たり前だが、打者が被害を受け、投手には利益がもたらされた。
 ホームランは、統一球導入前の2010年に年間1605本だったのが、導入初年度の2011年には939本に激減し、翌2012年には、さらに881本まで減った。逆に、投手、とりわけエース級の投手の防御率は飛躍的に向上し、巨人の内海の場合は、2010年に4.38だったのが、統一球導入後は、2011年が1.70、2012年が1.98と半分以下に向上した。統一球は、目論見通り「打低投高」の新しいトレンドを生み出したかに見えた。
 だが、少なくともそれまでのプロ野球ファンから見れば、「打てない」ことは魅力であるはずがなく、統一球を恨めしく眺めざるを得なかった。今年春のWBCでの侍ジャパンの敗北がまた統一球への懐疑となった。「国際規格に近づけ、国際試合に備えたたはずの統一球導入だったのに、日本選手は投打に渡って国際球を使いこなしたとはいえなかった。では、あの統一球は一体何だったのか?」
 こうして迎えた今年のペナントレースは最初から景色が異なった。明らかにボールが飛び始めたのだ。目敏いファンが、もちろん選手自身が「異変」にすぐ気が付いた。ホームラン数が激増し、エース級の投手ですら打ち込まれた。打者の技術の向上?それも確かにあったろうが、多分、それだけでは「打棒復活」は説明できないだろう。
 疑心暗鬼で進むペナントレース、とうとう真実が明らかになった。NPBと製造元のミズノが飛ぶように統一球を密かに改造し、こっそりと公式試合に提供したというのだ。

 「(改造は)前日まで知らなかった」とうそぶくNPBのトップたる加藤コミッショナー。3年前に大反対の声の中、コミッショナーの「強権」で導入した統一球の権威を、だからコミッショナーの権威を守るための「方便」は、隠蔽工作を事務局長の辞任という「トカゲのしっぽ切り」につながっていくだろうが、おそらくそれだけではすむまい。早晩、コミッショナーの辞任もしくは解任、さらには統一球の見直しへと進むに違いない。

 本来「楽しい」はずのプロ野球を、「今のホームランは改造前だったら入っていない」、「この投手が今年打たれているのは改造球だからだ」と、「疑念」を抱きながら観戦するのは、ファンはもちろん選手にとっても不幸なことである。NPB、ミズノ、コミッショナーの権威や利益のための「方便」が、プロ野球全体の不幸につながらないことを切に願う。

うれしいに違いはないのだが
2013/06/06

 先週、和歌山の慶西塾の西川先生のご好意で、先生が運営する大阪と和歌山の東進校舎を見学する機会に恵まれました。改めて感謝申しあげます。
 関西は、梅雨入りしたばかりと聞いてかなり覚悟して出かけたが、湿度が多少高いものの、気温はそれほどでみなく、汗ふき用の何枚ものハンカチ、扇子、多めの半袖Yシャツの「重装備」が少し肩すかしを食った感じ。それでも、函館に戻って、改めてこの時期の北国の清涼な空気に心地よさを感じてしまった。

 このところのスポーツの話題といえば、サッカーと日ハムの大谷選手であろうか。
 まずは、サッカー日本代表がホームでのオーストラリア戦で、ワールドカップ本大会への出場をを決めたことを率直に喜びたい。ゲーム終了間際の本田選手のPKはまさに値千金、全身にのしかかる重圧はいかほどのものであったろうか、ど真ん中に蹴ることの恐怖は想像することが難しい。この26歳の青年の精神力と技術の素晴らしさにただただ驚嘆するだけだ。
 だが、厳戒下の渋谷のあの若者の大騒動、マスコミの大はしゃぎは一体何だろう?まだ予選を通過しただけなのに。
 本田選手は確かに素晴らしかったが、オーストラリア相手に得点機はPKだけだったろうか?4年前のオーストラリアと比べて、そのチームの方が強くなり、日本チームの方が弱くなっているように見えるのは自分だけだろうか。
 何度かの得点決定機が観客、テレビ観戦者のため息とともに終わる。本当に日本のサッカーを世界に冠たる、つまりW杯を抱けるサッカーにするために必要なのは、渋谷の大騒ぎでも、雁首揃えての「喜びの」記者会見でもなく、優勝祝賀とまがうばかりのマスコミの過熱報道でもない、ずばり、「愛のブーイング」であろう。
 日の丸を背負い、日本中を熱狂させるのに今のチーム、選手、監督、戦法は十分なのか、W杯の頂点に立つのに欠けているのは何か、それを明らかにすることなく予選通過ごときで歓喜に浸るのであれば、日本サッカーの先は知れたものだ。本大会出場は祝福すべきだが、あえて苦言を呈したい気分だ。

 ところで、大谷翔平、すごい男がいたものだ。笑顔、爽やかさ、大胆さ、繊細さ、幸運さ、スターになる要素をほとんどすべて持ったこの若者の将来は、日本プロ野球の将来と重なるであろう。大谷を大成できないようでは日本野球界は解体した方が良いほどだ。
 ただし、今の「二刀流」路線には危ういものを感じる。大谷が数年で消え去る選手なら二刀流も良かろう、話題性が十分だからだ。しかし、これから20年間の長きを考えるなら、体力を極限まで酷使する投手と打者の二刀流は破綻が目に見えている。大谷選手の強い意向と聞くが、所属の日本ハムは監督以下いずれを専門とするかできるだけ早く決めた方が良い。個人的には投手だ。もう少し体が大きく(今でも大きいが)強くなれば、あのダルビッシュに負けないほどの凄みを持った投手になれるだろう。伝説の江夏投手以来見ることのできない、オールスター戦での9者連続三振をこの若者に期待したい。

桜咲く!
2013/05/09

 半年ぶりであろうか、遅れに遅れた桜の開花宣言に誘われて五稜郭公園を歩いてみた。公園全体がほのかにピンクに色づいている。時折立ち止まり、まだ二分咲きといった感じの桜を愛でながら、小一時間ほど歩いたのだが、久しぶりの陽気もあってかなり汗ばんだ。

 「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。」と、吉田兼好は『徒然草』で述べた。「サクラの花は満開の時だけを、月は影のない満月だけを見るのが最上なのだろうか?」と満開の桜を有り難がる風潮を冷笑した。、続いて「万の事も、始め・終りこそをかしけれ。」と述べ、この世の中のことは、始めと終わりが大切なのだ、と説いた。桜は咲き始めと散り際が雅だと。

 一方、本居宣長は『玉勝間』で、「かの法師(吉田兼好)が言へるごとくなるは、人の心にさかひたる、後の世のさかしら心の、つくりみやびにして、まことのみやび心にはあらず」、すなわち、「あの兼好法師がそのように言うようなことは、人々の人情に逆らっている。後生の利口ぶった心が、作り上げた偽りの風流であって、本当の風流心ではない。」と、随分激しく批判している。

 桜の見頃は人によって異なる。それぞれが楽しめればいいはずだが、兼好か宣長かの対立は自分の中でずっと続いていて、今年も多分解決しそうにない。

写真左:薄ピンク色に染まり始めた五稜郭公園。遠くの山々はまだ冠雪している。
写真中(画面サイズによっては右かも):五稜郭タワーを臨む。
写真右(画面サイズによっては下かも):吉田兼好好みであろうか。

「君子」は大変
2013/04/16

 まだまだ暖房と縁が切れないでいるが、日中吹く風に、少しだけ春の優しさを感じることがある。桜の開花は例年よりも遅く5月1日頃らしい。そこから2ヶ月ほどだが、北海道の大好きな清々しい季節がまた堪能できそうだ。

 論語で孔子が次のように言ったとされている。
「君子もとより窮す、小人窮すればここに濫(みだ)る」
 
 孔子一行が、「陳蔡之厄(ちんさいのやく)」という災難に遭ったときに孔子が発したとされている。
 孔子一行が敵に取り囲まれ、身動きがとれず、食物も尽き、七日間飲まず食わずの状況に陥った。この危機の中でも、孔子は普段と全く変わらず、何ら手段を講ずることもなく、楽曲を楽しんでいたという。弟子の子路が、怒りを含んで孔子に尋ねた。

  「君子も窮することがあるのですか」

 そこで、孔子がこう答えた。

  「君子といえども窮することはあるし、君子だからこそ窮することもある。
  それに、君子は絶えず自分を追い込んでいる。だから、君子は窮しても平静な
  自分を保っていられる。だが、小人は窮すれば自暴自棄となって乱れてしまう。
  君子と小人の差はこれだけだ。」

 この言葉を聞いて、子路はじめ弟子たちの動揺は収まり、一行の団結でこの危機を乗り越えたという。

 「危機管理」という言葉が盛んに使われる。大地震、大津波、原発事故、朝鮮半島有事、会社だって、家族だって危機はある。「危機を管理する」ことが右往左往、あの手この手を尽くすことだけではあるまい。特にリーダーたる者にまず問われるのは、危機の中で冷静でいられる胆力、成員を落ち着かせ励ます余裕であろうか。と言いながら、君子のように「もとより窮す」ではなく、紛れもなく「ここに濫る」自分を情け無く思うことがある。

 今週木曜日、今年の浪人クラスが開講する。窮することなく、乱れることなく、全員を志望大学に導こうと強く思う次第だ。

指揮官とオーナーが無能
2013/03/27

書の名人と言われた弘法大師(空海)は、どんな筆であっても立派に書をしたためたという。そこから、「弘法筆を選ばず」は、その道の名人や達人と呼ばれるような人は、使う道具や材料をとやかく言わず、それぞれを見事に使いこなすことができるという例えに用いられている。
 英語では、A bad workman always blames his tools.(下手な職人は、いつも道具に文句をつける)と言う。日本でも欧米でも、本当にいい仕事が出来る人は、道具の善し悪しには左右されないものらしい。

 WBCでの「侍ジャパン」の敗北は残念だったが、イチロー、ダルビッシュ、、松阪、中島などの「大リーグ組」を欠いた戦力での優勝は難しかったような気がする。山本浩二監督の采配、非力なコーチ陣、内川選手の走塁ミス、阿部、稲葉などの貧弱な打線、田中マー君を初めとするぴりっとしない投手陣、などなど敗因はいくつかはすぐに挙げることが出来よう。

 しかし、根本にある敗因は、監督、コーチ、選手ではなく、NPB(日本野球機構)の無能さにあるように思う。とりわけ、WBC使用球への配慮のなさは怒りさえ覚えてしまう。一昨年導入された「統一球」は、遠くに飛ばせないボールで、多くのバッターが被害を被った反面、ピッチャーはずいぶん成績を上げることが出来た。NPBの説明では、「WBC始め国際試合に対処するため」だったはずだが、実は統一球とWBC使用球はまったく異なったボールで、事前に各選手に12球ずつ手渡されたものの、ピッチャーは高い縫い目と滑りやすい革に戸惑い続け、十分な感触を得ないまま本番を迎えざるを得なかったし、無理に投球フォームをいじったあげく故障で戦線を離脱するピッチャーも出た。野手もまた打撃フォームに最後まで悩み続けなければならなかった。日本が目指す「スモールベースボール」は、それ自身大きな問題を孕んではいるが、前提となるのは先制点を与えない、最少失点で抑えるだが、その実現は困難だった。バッターもまた統一球以上に遠くに飛ばすことが出来なかった。

 選手全員が「弘法大師」なら別だが、「弘法も筆の誤り」があったほどだ。戦う前から敗北を予感させる「使用球」へのNPBの無策ぶりを責めるべきで、選手の責任を追及するのは本末転倒だ。しかも、空海上人は「悪意に満ちた」筆を使って書いたのではなく、粗末であっても善意ある筆に見事に応えたということではないのか。「弘法筆を選ばず」を選手に押しつけて、NPBの責任を見過ごしてはいけない。
 指揮官が無能なチームは悲力だが、チームのオーナーが無能なチームは悲劇ですらある。

 東京の桜は満開を過ぎて散り始めているらしい。函館の桜は蕾がまだ堅いままだが、教え子たちの多くが一足先に「春」を迎えた。校舎玄関の合格者掲示が誇らしい。

ハットトリック
2013/03/04

一昨日、イングランド・プレミアリーグのマンチェスターUのMF香川真司が、ノーリッジ戦で欧州移籍後初のハットトリックを達成した。欧州でのハットトリックはアジア人としては初めてだそうだ。中田英寿はすごい選手だったし、中村俊輔も素晴らしかったが、香川も結構やるなあ、楽しみが増えて良かった。

ハットトリック(hat trick)はサッカーで一人の選手が一試合で三点以上得点することを指すが、ハット(帽子)の由来はサッカーではなくて、やはりイギリス発祥のスポーツであるクリケットだそうだ。1つの回の中で3球で3人の打者をアウトにすると、これを達成したボウラー(投手)には、帽子(ハット)が贈られその名誉が讃えられたんだそうだ。恥ずかしながら、大学に入るまで「脱帽」だと思っていた。英語の授業かなんかで初めてクリケットが起源だと知って、へー、と思ったものの、なかなか達成できない一試合三点はやはり「脱帽」だろうと自分のセンスに納得していたものだ。単に負けず嫌いだったか。

WBCが始まったが、我が侍ジャパンは格下と思われていたブラジル戦でリードを許し、やっと逆転で勝ち、次の日の中国戦でも勝ったとはいえ、どうもスッキリした感じはなかった。投手では、田中、杉内、山口がピリッとしないし、打者も遠くに飛ばせない。キューバ戦はどうなってしまうんだろう、心配は尽きない。

そのキューバ戦の6日から国公立大学前期日程入試の合格発表が始まる。我がゼミナール生の勝利を確信している。

楽な試験などない!
2013/02/12

 およそ試験に楽はなく、受験者の合格の日までの重圧は測りがたい。
 中国には隋代から始まる科挙とい試験制度があった。優秀な人材を中央政府と地方政府に登用するための試験制度であるが、国家のエリートたる「進士」に合格(登第と呼ぶらしい)するまで実に過酷な幾多の試験に耐えなければならなかった。

 清代では、県試−府試−院試−歳試−科試と続く予備試験を経て本試験の第一関門である「郷試」にたどりつくが、受験者約10万人に対し合格者は1300人ほどであるという。郷試合格者は「挙人」と称され、早くも尊敬の対象となる。このあと、挙人覆試を経て科挙の事実上の中核試験である「会試」を目指すが、三年ごとに実施されることと、合格者が極めて少ないことからおびただしい数の”浪人”が生まれ受験者は2万人に昇ったという。
 3次・9日間に及ぶ試験を経て合格する者わずか300人程度。試験の最中、発狂する者、心身の疲労で死亡する者が多数出たというから実に過酷な試験であったことだろう。合格者の平均年齢は36歳前後、中には70歳を超えた合格者もいたそうだ。
 合格者は「会試覆試」の後、最終試験である「殿試」に臨むが、進士登第はすでに決まっており、その後の出世の序列を決める試験である。出題は皇帝自らが行い、内政・外交に関わる内容が多かったらしい。この試験の成績次第で、中央政府の官僚に留まれるのか、県知事など地方の官僚に「飛ばされる」のか決まったというから、最後の最後まで気が抜けなかったことだろう。
 科挙は世界一過酷な試験制度であるが、誰もが受験できたわけではなく、10年から20年、30年に渡る試験期間をほぼ勉強だけに専念でき、また、試験対策には優秀な家庭教師を必要としたから、受験者はかなり裕福な家庭の子弟に限られた。子弟が進士になることは一族の誉れであると同時にそれなりの「見返り」が期待できたであろうから、現代日本の「お受験」をはるかに超えた過熱ぶりが見られたことだろう。一族に合格できそうな男の子がいそうもないときは、恵まれない家庭の子供の中から「頭の良さそうな」子供を養子に迎えることも多かったらしい。

 さて、進士の試験の峻烈さには及ばないかもしれないが、我が第一ゼミナールの浪人生、東進生もセンター試験の後、今、私大入試に立ち向かい、今月25日の国公立大学前期日程試験に挑もうとしている。体調を損ねることなく、重圧に負けることなく、合格の日を迎えることができることを確信している。共に戦わん!

さあ、これからが本番だ
2013/01/21

 センター試験が終わった。幸い、天候にも恵まれ、無事終えることができた。受験生の頑張りに、心から敬意を表したい。

 センター試験は実に過酷な試験だ。2日間の緊張もそうだが、受験への長い準備を打ち砕く出題もほぼ毎年のように見られる。今年は、国語と数学TAがそうであろうか。昨年よりもそれぞれ15点以上は平均点を押し下げたように思える。
 国語はこのところ平均点が6割に満たない状態であったから、それからのさらなる下落が予測されるような出題は、多くの受験生をまごつかせたに違いない。数学TAは、この二年間の易化傾向から難化することが予想されてはいたが、よもやここまでと思わせるに十分なほど凝っていた。

 もちろん、難化しても何もなかったかのように得点を重ねる受験生もいる。当校でも、国語、数学TAともほぼ満点という豪の者もいて、何が難しいんですかと涼しい顔をしている。そも一方で、結構勉強したのになあ、と落胆する受験生もいる。両者を分け隔てているのは、俗にいう頭の良し悪しではなく、ほんの少しの差、心の中の何かの差であるかのように思えてならない。自分自身への確たる信頼の差と言い換えて良いかもしれない。そして、それを持たせようとしてきたのが我が第一ゼミナールの30年間だったのだ。

 幸い、我が第一ゼミナールは、大幅な平均点下落予想の中、次の試練である2次試験への挑戦権をしっかり手にしたように思える。仕切り直しの私大入試を挟んで、国公立前期日程試験での大勝利まで受験生と共に奮闘したいと思う。

 センター絶好調の受験生も、少し不本意な受験生も、己自身のこれまでの努力を確信して、勝利の日まで共に戦わん!

忙中閑あり
2013/01/10

 今年の函館は本当に寒い。零下10度を下回ることが多く、雪の量も半端ではない。滑る道路を気にして車はノロノロ運転、移動に普段の倍近くの時間がかかる。先日、亀田八幡宮のどんど焼きに出かけたが、日中は神社に行く道路があまりの渋滞で引き返し、夕方に再び赴いたが、例年2,30分ほどで往復するのに、今回は1時間少しかかってしまった。街全体が冷凍庫に入ってしまったかのようだが、宗谷地方の枝幸郡歌登町では、最低気温が零下31.7度と聞いた。どんな寒さなのか見当もつかないが、熱いお湯を空中に散布すると一瞬で氷の霧になるそうだ。実験としては楽しそうだが、生活している人はさぞご苦労だと同情してしまう。この寒さ、果たしていつまで続くことやら。

 立ち寄った喫茶店のベランダの給餌台に、入れ替わり立ち替わり小鳥がやってくる。雀、コガラ、シジュウカラ、セキレイが、暗黙のルールでもあるのだろうか、きちんと順番を守って給餌台に向かう。餌の少ない冬にもかかわらず、この給餌台のおかげで、皆ころころとしている。紅茶をすすりながらしばらく眺めていると、満腹になったのだろうか、一羽の雀がベランダの隅の雪の陰にやってきて、頭を後ろ向きにして体に埋めこっくりし始めた。おそらく風が当たらない所だと知っているのだろう。実に心地よさげな感じが伝わってきた。程なく、最初の雀にあやかろうと、二羽の雀がやってきて、仲良く寄り添うように寝始めた。携帯カメラのシャッター音に気づいて少しだけ眼を開けるが、また寝始める。口許がすっかり緩んでしまっていることに気づいたのは、二杯目の紅茶がすっかり冷めてしまった頃だった。

船乗りになったHS君
2012/12/19

 とうとう大雪になってしまった。除雪の回数が増え、腰に痛みはまだ来ないものの多少のだるさが感じられる。雪が降って喜ぶのは子供と犬だけ?かもしれないが、北国にいる以上雪と付き合っていかなければならない。冬場の運動不足の解消だあ、成人病対策だあと、気合を入れて来春まで「寒い友達」と過ごすことにしよう。

 卒業生のHS君が来てくれた。彼は、NPO法人の地震調査船の航海士だ。シンガポール方面への航海を終え、休暇をもらって帰郷したのだという。
 彼は我が校での1年間の浪人生活を経て、東京海洋大学に進学した。真面目でおとなしい生徒だった。叱られることも、何かしら注意されることもなく、やるべきことはしっかりやってまずは順当に大学に進学した。校舎や自分に特段打ち解けていた感じはなかったが、大学進学後は毎年欠かさず顔を出してくれ、東京での学生生活や将来の事を少しはにかみながら話してくれるのだった。企業へすぐに就職するのではなく大学院への進学を考えているようなことも話してくれた。彼なら、学者の道も合っていそうだなあと自分は勝手に思い込んでいた。

 4年生になる春に校舎にやってきた彼から聞いたのは、学部を出た後は「特設専攻科」に進学し、「船乗り」になりたいということだった。彼には悪いが、余りのミスマッチに驚き、しばらくの間言葉を失ってしまった。この華奢(きゃしゃ)で物静かな男が、よりによって「オトコ」のイメージの代表とも言うべき「船乗り」になるなんて!
 それから2年、三等航海士の免許を得た彼は船会社に就職し、ここは彼らしいところだが、地震・海底火山の調査船に乗船することになったという訳だ。
 航海士の制服が相当似合いそうな気がするくらいに充分「男らしく」なったHS君を前に、乗船する船のこと、航海士の仕事のこと、将来は船長になる夢のこと、下船後の休暇の長さ、(給料のことも!)などを聞き、これでも高校時代は「船乗り」に憧れたこともある自分も大海原を航海している気分に束の間なれたのだった。

 HS君、今度の航海は来年2月だったかな。二等航海士の試験はいつだったったけ。留守を守ってくれる人はまだいないんだったかな。今度か次の航海が終わったらまた来てくれよ、いっぱい聞かせてくれよな。

沖縄を思う
2012/12/08

 本当に寒くなった。とうとう最高気温が零度を下回った。今日は、校舎の雪かきの作業を何度かしなくてはいけなかった。去年暮れから今年にかけてのあの寒さと豪雪が頭を過ぎる。どうか、少しはご勘弁を。

 岩手・花巻東高の大谷翔平投手が日本ハム・ファイターズに入団か、というニュースが飛び込んできた。北海道民としては嬉しい限りだ。最速160キロの豪腕は、斎藤佑樹や中田に勝るとも劣らない人気と期待を集めそうだ。だが、しかしだ。矛盾しているようだが、「高卒メジャーリーガー」大谷も見てみたい気がする。すぐにメジャーとはいかないだろうが、野茂、松阪を凌ぐピッチングと活躍を期待したい気がする。入団か大リーグ挑戦かは明日発表があるそうだ。ワクワクしながら待ちたい。

 総選挙運動の最中だが、住んでいるところも校舎も大通りに面していないせいか、例の候補者名の絶叫連呼がほとんど聞こえてこない。原発、増税、TPP、景気対策、いずれも大きな問題なのだが、沖縄の辺野古移設やオスプレー配備についてはとんと話題にならないのはなぜだろう。
 辺野古移設は、「最低でも県外に」と約束した当時の鳩山首相を「嘘つき」呼ばわりして退陣させた大問題であったはず。なのに、多分、票にはならないと踏んだのか、選挙の焦点にはならず仕舞いになりそうだ。「世界一危険な米軍基地」と言われる普天間基地に配備されたオスプレーも、いつ事故が起こっても不思議ではなく、おまけに物騒な本格運用が開始されると聞く。超低空飛行の騒音と落下事故に沖縄県民がおののく中、候補者はもちろんマスコミも全く知らんぷりだ。
 尖閣、竹島問題で、やれ国防軍だ、やれ強い日本だ、戦争も辞さず、と進軍ラッパが吹かれ、ナショナリズムに思いを馳せる人たちもいるだろうが、アメリカの核戦略の軛(くびき)にがんじがらめに縛られている沖縄の危機的な現実を少しだけでも考えてみることが必要ではないか? サンフランシスコ平和条約に始まり、日米安保条約の締結と改訂、自動延長を経て日米関係は、「日米軍事同盟」として変質・強化を続けてきた。沖縄のすべての問題の根源はここにある。深くて重いが、避けて通ることはできないはずだ。

塾長、切れたんですか?
2012/11/19

 とうとう初雪となった。雪と言っても、とても遠慮がちに、申し訳なさそうに少しの時間だけ降っただけだったが。今週後半から寒くなりそうだ。今度は遠慮無しの雪になるだろうか。

 小沢一郎の無罪が確定したそうだ。「そうだ」というのは、新聞始めマスコミがほとんど取り上げないからだ。小沢事務所に検察の捜索が入ったときの号外を出してまでの喧噪とはまったく対極をなしている。
 ほぼ全てのマスコミの、フランス革命以来の近代裁判の根本原理である「疑わしきは被告人の利益に」を忘れ去ったかのようなあの異常な「反小沢キャンペーン」は何だったんだろうか。まだ有罪が確定していない彼を、「極悪非道人」に仕立て上げ、ほとんど人格破壊に等しいまで叩き続けたマスコミは、今、反省はおろか、何事もなかったかのように事件そのものを風化させようとしている。
 自分は小沢支持者ではないが、小沢裁判におけるマスコミの対応は、「中立・不偏・不党」などとは全く逆の悪意に満ちたそれだったと思っている。今も尚、マスコミは小沢氏が代表を務める野党第2党の「国民の生活が第一」をほとんど取り上げることなく、わずか国会議員数名の石原新党とそれを吸収合併した橋下「維新」を連日トップで取り上げ、依然としてマスコミが「反小沢」のエセ「不偏・不党」であることを示している有様だ。
そして、石原慎太郎のマスコミのヨイショぶりは、「中立・不偏・不党」とは正反対なのだ。マスコミは、東京都知事を任期途中で投げ出したこと、任期中の功罪の追求をまったくしないこと、かつて国会議員、大臣であった時の功罪を不問にし、石原=橋下「維新」の完全な「宣伝マン」に成り下がっている。新聞始めマスコミは単に大衆に迎合してキャンペーンを張っているのではなく、明らかに何らかの政治的な思惑を持って報道しているのだ。

 3.11の大地震・大津波・原発事故以降の状況を考えれば、マスコミが真に「社会の木鐸」ならば、真に「中立・不偏・不党」ならば、果たして原発の稼働は可なのか否なのかを、震災からの復旧がほとんど進んでなく、帰る家すらない被災地の多数の人が不景気の中呻吟しているこの時期に、消費税増税が果たして妥当かどうかを、オスプレーの配備以来、死と隣り合わせの生活を強いられている沖縄県民の苦悩を、真っ向から取り上げ、政権党、野党、「第3極」を問いただすべきではないのか! しかし、マスコミの代表たる新聞は、その社説で「増税・原発稼働・日米軍事同盟強化」を喧伝し、意に沿わない者の意見をほぼ抹殺しようとしている。何たる腐敗だろうか、何たる堕落だろうか...。いつも思う。三流の政治家、四流のマスコミをもつ国民は不幸だと。

日ハムのファンですか?
2012/11/02

 我が北海道日本ハムファイターズと読売ジャイアンツが日本一をかけて戦う日本シリーズが始まった。5試合終わって日ハムの2勝3敗となった。明日からの東京ドーム対決にわくわくしてしまう。
 途中からではあるが現北海道人の人情としてはファイターズに勝たせたいのだが、子供の頃の憧れであったジャイアンツへの義理もあって、3年前の両チームによる日本シリーズと同様に、何とも複雑な気持ちもわき起こるのだが、やはりまた、大いに楽しみでもある。どちらを応援するというのではなく、ゲームそのものを楽しみたいと思うが、無理か? 出来るだけ第7戦までいって欲しいと思う。
 
 石原慎太郎氏が第3極形成のために「新党」結成に走りだした。都知事の任期を途中で投げ出したのはもちろんけしからん事で、TPP賛成、原発推進、消費税増税推進、日米同盟強化なども異論はあるが、また、ずいぶんと差別と偏見に満ちた物言いも気に食わないのだが、それ以上に憤りを覚えるのが、石原某氏へのマスコミの対応だ。

 マスコミはよほど彼が怖いのか、記者会見でも恐る恐るお伺いを立てている感じで、都知事としての功罪、政治家の資質を検証することを全く放棄し去っている。「石原」銀行の破綻による都民の大損失、オリンピック誘致失敗と税金の無駄遣いなど追求するそぶりすらないのだ。そればかりか、テレビでは、連日のように彼の「カリスマ性」、「リーダーシップ」を賞賛するいわゆる「街の声」を拾い集め、「新党」結成の応援団と化す有様なのだ。ほとんど人格破壊といっていいほどの狂ったような反小沢一郎キャンペーンとは大違いなのだ(自分は別段小沢ファンではないが)。

 まあ、無理もない。日経、読売、毎日、朝日、産経など大マスコミ(最近は”マスごみ”などと陰口をたたかれるが)は、石原某や最近彼と同盟しようとしている橋下某と同様に、こぞってTPP賛成、原発推進、消費税増税推進、日米同盟推進なのだから。ならば、「報道の中立」、「社会の木鐸」などと美辞麗句で自分を飾り立てるのは今日限りやめた方がいい。本当に思う。三流の政治家、四流のマスコミを持つ国民は不幸だと。
 

感動だった!
2012/10/03

 台風17号が過ぎ、函館の季節は完全に秋になった。教室の窓を全開すると、ほんの少しだけ冷たさが感じられる風が流れ込んでくる。空の青さったらどうだ! でも、短い秋が終わると、うーん、またあの冬だ。

 何たって日本ハムだろう、こんなにうれしい優勝はない!
 ダルビッシュがいない、4番はあの心許ない中田翔、なによりも監督は現場経験のない栗山さんだ。いくら、糸井が、陽がいるからと言ったって、田中賢、マック金子が安定しているからと言ったって、稲葉だって40歳だし2千本安打のプレッシャーもあるし...。誰もがそう思い、誰もが今年の優勝はないと勝手に思った。
 それがどうだ、序盤のエース・斉藤は中盤以降ずっこけたものの、同じ「斉藤佑樹世代」の吉川が14勝でダルビッシュの穴を完全に埋めた。4番中田は中盤以降安定し、いいところで打ち本塁打キングを狙う位置にまでつけた。糸井も陽も期待通りだったし、終盤怪我で退いたものの田中賢介の打撃も守備も相変わらず安定していた。そして、稲葉だ。あっという間に2千本安打を達成し、中田、陽らに「鉄人の背中」を見せ続けた、本当に偉大でしかも健気な男だ。キャッチャーの鶴岡も良かった。凄みはほとんどないが、穏やかに若い投手をリードし、また、いいところで打ってくれた。

 で、栗山監督だ。優勝決定を確認した後で彼が求めたのが胴上げではなかった。まず、ダッグアウトでコーチ、スタッフ全員と握手し、ひしと抱き合い、それから徐にグラウンドの中央に向かい、選手に祝福の拍手を送り、今度は選手全員と握手し抱き合い、その後歓喜の胴上げに臨んだのであった。大泣きではなく、押さえるでもない、自然の涙がこれほど似合う男は滅多にいない。
 彼は、戦略・戦術・作戦の公開を通して選手の立場を覚醒させルことに成功した。中田の4番固定は大博打でも何でもない。中田が自分の立場を理解している以上、そしてそれに応える能力があると判断した以上、彼を取り替える理由はなかった。投手ローテーション然り、覚醒せる選手への信頼と監督の「ぶれなさ」は同義語だった。こうしてグラウンドに放った選手の成功は、選手のお手柄であり、失敗は監督の過ちと言い切ることで、選手が萎縮することを避けることができた。緻密な作戦の立案、実行能力にも長けた栗山監督は、まさに野球界の「21世紀型」監督像を見せつけてくれたのだった。

 そして、日ハムの強力な応援団=北海道民こそ優勝の本当の原動力であったかも知れない。「なんも、いっしょ(全然、問題ないよ)」、例え斉藤佑樹が打たれようが、名手・金子がエラーしようが、中田が三振しようが、栗山監督以上に選手を信頼し、日ハムの野球をとことん楽しんだ北海道民あっての優勝だったにちがいない。大らかさ、優しさ、寛大さに助けられ、励まされた選手がどれほど多かったことか!

 おめでとう! 打倒・ジャイアンツ=日本シリーズ優勝まで突き進め!

坂本龍馬気取りの先に...
2012/09/13

 このところ天候の話から始まることが多いが、今日の函館は最高気温が28度に上った。50日連続真夏日(最高気温30度以上)の埼玉県熊谷市とは比較にはならないが、すっかり暑さへの耐性を欠いた「北海道人」としては、この連日の暑さは相当に身に堪えている。しかし、遠慮しているかのようにだが、秋は近づき始め、朝、晩の風の清々しさにほっと和んでしまう。頑張れ、秋!

 さて、橋下某が率いる「維新の会」に注目が集まっている。ひょっとしたら次期衆院選では第一党になるのではないかという見方も出始めた。坂本龍馬の「船中八策」ならぬ「維新八策」の踏み絵を前に、現職の国会議員が傅く様子に異様さと共に滑稽さすら感じてしまうのは自分だけであろうか。
 
 無党派である自分は、どの政党が第一党になるかにはほとんど関心はないのだが、「維新の会」に極めて危険な兆候を垣間見る。

 1.「強さ=数(カズ)」を標榜し、社会的弱者に強圧的である。
 2. 善か悪か,敵か味方かという二価値判断が認められる。(維新八策を認めるか否か)
 3. 思考が紋切り型のステレオタイプである。
 4. 理想に対しては冷淡で「リアリズム」をことさらに強調する。

 ざっと、並べてみて、ナチス=ヒットラーの「権威主義」を受け入れた大衆の心理を分析した哲学者のテオドール・アドルノを思い出す。
 また、同様にファシズムを生んだ大衆心理を「権威主義的パーソナリズム」と喝破し、大衆が「自由からの逃走」によって、全体主義=権威主義に全権を委ねてしまったかつてのドイツを指弾したフロイト左派のエーリッヒ・フロムを想起せざるを得ない。

 二人はまた、権威主義の到来の先にあるのは、権力者への自虐的な従順と、弱き者への他虐が待ち構えていることを警告した。すなわち、異常なまでのナチズムへの傾倒と、残虐極まりないユダヤ人撲滅を。

 願わくは、国民が「改革」の夢と政治的・思想的・社会的自由の重みに耐えかねて、また、忍耐をすっかり放棄して、「新たな権威」の魅力にそれを売り渡すことがないように。

暑!
2012/08/21

 うー、暑い! マジ、北海道?
お盆を過ぎて気温が上がり始め、この三日間は30度を超えている。北見では34度と聞く。節電を心がけようとは思うものの、この暑さではさすがに教室のエアコンを絶つわけにはいかない。とうとう、夕方近くになって、定格電流を超えたため小ブレイカーがダウン、受講中の生徒諸君に迷惑をかけてしまった。
 予報では、今日、明日が暑さのピークということなので、「暑い!暑い!」の連発でいっそう暑さを募ることがないようにして、爽やかな秋風の到来を待つことにしよう。もっとも、寒くなればなったで、この暑さが恋しくなる。人はつくづく身勝手だ。

 オリンピックは終わったが、テレビはまだオリンピック関連で視聴率を稼ぎたいらしく、メダル獲得数がどうの、活躍した選手たちがこうのと、オリンピック反対論者としては居心地の悪い日が続いている。近代オリンピックの父たるクーベルタンのアマチュア主義に未だに共感・支持する身としては、商業主義一辺倒、プロが跋扈する現代オリンピックなどに関心はないのだが、そこは、大のスポーツ観戦好き、大きな相手に怯むことがなかった”なでしこ”の強さに舌を巻き、アーチェリー男子個人の冷静なシュートに感心し、女子バレーの韓国戦で声を枯らし、ボルトの短距離連覇の走りに素直に感動を覚える。やはり、無条件にスポーツは素晴らしいと思う。
 だが、やはり今のオリンピックはいったん廃止すべきだと思う。誰が認めたかは知らないが、オリンピックにはあまりにも深く国家、コマーシャリズム、プロ選手が入り込みすぎた。異常なまでの誘致合戦、経済、政治へのオリンピックの露骨なまでの利用は、もはや「参加することに意味がある」はずのオリンピックを死なせてしまった。いわば、「ワールドカップ」の連合体となったオリンピックは名前を返上し、「国際総合スポーツ大会」とでも称して存続するならそれでよし、厳格な意味でのアマチュアスポーツの祭典としてオリンピックを再興して欲しいと願う。恐らくそうはならないだろうが。

柔道とJUDO
2012/08/03

 7月の終わりになって、4日間ほど30度程度の暑さが続いたが、今日はかなり涼しくなった。湿気もなく北海道らしい夏だ。7月中旬から、出張とお墓参りで、東京、京都に出かけたが、あまりの暑さと湿気にたじろいでしまった。函館の30年間で、すっかり北海道型の身体になってしまったらしい。

 アマチュアリズムがすっかり失せた近年のオリンピックには否定的な自分だが、テレビも新聞もオリンピック一色に染まっているせいで、否応なしに「観戦」する羽目になっている。
 苦戦が続く柔道だが、選手を責めることはできない。なるほど柔道は日本のお家芸だが、スポーツとしての”JUDO”または”ジュウドー”は柔道ではないからだ。男子100Kg級の穴井も、自分が大好きだった「内股」の井上康生も偉大な武道家・柔道家ではあるが、JUDO選手ではない。試合時間の5分間の大半を「組み手争い」に終始し、初めから「イッポン」などは眼中になく、「シドウ」、「ユウコウ」を狙う、たまに「ワザアリ」、「イッポン」があったとしても、双方ぐちゃぐちゃになって倒れていく様は、武道の美しさとは無縁だ。武道家・柔道家はJUDOスポーツでは勝てない。柔道は武道であるという意識とは無縁のJUDOというスポーツの選手を育てればいいのだが、柔道は武道であるというあまりにも長い伝統を持つ日本に根付かせるのは相当に困難だし、自分は興味もない。負けてもいい、すっくと立って最後まで「一本」を取りに行く柔道を徹底することで、JUDOに対抗して欲しいと願う。

どうして生活保護受給者をバッシングするんだ!
2012/07/11

 函館は、今週になって気温25度の日が続いている。夏日なのだが、教室の窓から入る風が心地よく、つくづくいい季節だなあと思う。今年は寒い春だったので余計その思いが強い。

 今朝の日経新聞によれば、一面に「就活に薄日 内定率上昇」とあり、その理由として「大企業が採用意欲を高めていること」と「学生が早い段階から中小企業への就職活動に取り組」んだことを挙げている。少しホッとするが、それでも内定率はまだ6割だ。早く希望者全員の働き口が見つかればいいなあと心から願っている。

 芸能人の親の生活保護不正受給から始まり、若者や一部地域に蔓延する不正受給、一部外国人の不正受給がマスメディアに取り上げられ、よほど暇なのか国会議員までが暴露合戦に参戦した。生活保護費が年金や最低賃金と比べられ、高すぎるから低くせよとか、生活保護の対象を制限しろとかの議論が、マスメディア主導で始まった。やれ、受給者数が200万人を超え戦後最悪だ、やれ、国家予算に3兆円も組み込まれているなど、今ほど生活保護や受給者が目の敵にされている時はない。
 
 いつから日本はこんなに品がない情けない国になったのであろうか。中国に抜かれたとはいえ、GDP世界3位の国が僅か2%程度を扶養して何が悪いのだ!何が問題なのだ!狩猟時代の太古の人たちですら、足が不自由な仲間に食料を分け与えていたことが知られている。我らはその時代の人達の優しさ、寛大さにも及ばないのか! 生活保護の疑念へ誘導するマスメディア、一部政治家の策動に絶対に乗ってはならない。慌てて、生活保護の見直しを約束した、かの「国民の生活が第一」の政権党のオンナ大臣など言語道断である。何が国民の生活が第一だ!

 この大不況の中、消費税増税はじめとする増税が待ち構えていて、おそらくさらなる不況へと向かうであろう。国民生活の向上ではなくその逆を目指す「大政翼賛」国会とそれを煽り立ててきたマスメディアは異常としか思えない。彼らは、生活保護予算の数十倍にも膨らんだ「天下り」組織は温存し、社会的弱者の「過保護」ぶりに国民の目を向けさせ、バッシングさせることで国民の不満を「ガス抜き」させようとする。我らはこんな策動に乗ってはいけない。品格、優しさ、寛大さを失う社会は人が住むに値しない社会だ。

”三高”から”三平”へ
2012/06/21

 6月に台風が上陸したのは8年ぶりだそうだ。6月の台風は、比較的小規模だと聞いていたが、直撃した沖縄はじめ西日本は大きな被害を受け、関東、東北も雨と風にたたられた。台風一過で関東以南は夏の暑さらしいが、函館は今も雨が続いている。6月に台風が上陸する年は、上陸する台風が多くなるそうだ。3.11の被害に追い打ちをかける自然を、少し呪いたい気持ちになる。

 「三高」はアラフォー、アラ5世代の女性が、結婚相手として望む男性理想像だった。曰く、「高い身長、高い学歴、高い収入」。日経平均株価が今の株価の4倍にも達し、日本中をボデコン(死語か?)女性が跋扈した「バブル」時代の話だ。もっとも、この条件を満たす男性は確率的に言っても極少数であったろうし、その男性にも女性を選ぶ権利があるから、理想をかなえた女性の数はそれほど多くはなかったのではなかろうか。仮に、女性が思いを遂げたとしても、「三高」男性ほどの自信家なら、一人の女性の思い通りにはなかなかならなかっただろう。

 時代が変わり、今は「三平」志向だとか。曰く、「平均的な年収、平均的な容姿、平穏・平凡な生活」。女性もずいぶん慎ましくなったものだ。「三高」の見果てぬ夢覚めて、現実へ回帰したのであろうか。それとも、「三高」を求め、結果として傷ついた女性の束の間の癒やしであろうか。「三高」の少なくとも最後の「高」には該当しなかった自分としては、少しほっとはしているが、すべてがこぢんまりしてしまう昨今の傾向にすぐには首肯できない思いがある。

 ところで、このところ触れる機会が多くなってしまっているが、消費税増税の話だ。国家権力とマスメディアが一体となるとやはり強い。ほとんどの国民が反対する中、消費税増税に向かって大風が吹いている。
 自分は、理系出身で経済学は素人だが、それでもバブル崩壊以降の「失われた20年」が、時の政権の誤った経済政策によるものだ、というくらいの常識は持ち合わせている。
 特に、その1 小泉=竹中の「新自由主義経済」政策
「規制緩和」によって、大幅に供給を増やしてしまったこと。例えば、タクシー業界は規制緩和で大幅に台数が増え、競争激化の煽りでタクシー会社の経営難、賃金の大幅ダウンを招いた。
 その2 民主党の「コンクリートから人へ」政策
デフレ下で、本来はインフレ時の政策である公共投資削減をすることによって、需要が大幅に縮小し、デフレ=不景気がますます進む。
 その3 民自公三党による「消費税増税」政策
増税はいっそうの消費低迷=需要のの縮小を招き、デフレはますます進行する。

 時の政権が、デフレの時にインフレ政策をし、インフレの時にデフレ政策をする、いわばアクセスとブレーキを踏み違えるのは、乗員(国民)の安全を考えないからだ。彼らに関心があるのは、国民の安全ではなく、特定の誰かの利益や、自己の損得や政権の維持だ。三流の政治、四流のマスメディアを持つ国民は本当に不幸だ。
 

なんか最近おかしい
2012/06/14

 寒い初夏だ。我が家では朝と晩に床暖が入る。今年の冬の大雪といい、この寒さといい、何かおかしい。

 おかしいと言えば、我が政権党・政府がその極みかもしれない。消費税増税に突き進む様子は、財務省の出先機関と化した感がある。3年前に国民に約束した「反」増税方針を厚顔無恥にも捨て去り、「税と社会保障の一体改革」と言いつつも、実際は社会保障改革はほぼすべてを棚上げし、何かに取り憑かれたかのようになりふり構わず増税一本をごり押しする様(さま)に、毎日呆れ、怒り、悲しく、絶望的な気持ちになる。

 財務省(旧大蔵省)には、したたかな歴史がある。なにしろ1200年前に日本に律令制度が生まれたとき以来国家の財布を握り、一度も手放したことがないのだから。明治になって大宝律令が廃止されたが、大蔵省は名称を変えながらも生き残り「官庁の中の官庁」として国家中央に君臨してきた。もっともこの役所の仕事は、税金を取り上げることと役所と役人の利益を守ることだけと言って良い。1200年にわたって受け継がれたその「DNA」は、理念も性根も据わっていないチンピラ政治家はもちろん、時の首相や大臣を牛耳ることなど朝飯前。言うことを聞かなければ、あの手この手で政治家を「追放」することも厭わないできた。

 消費税増税に理など全くない。現政府・政権党は、「国家予算10数兆円に群がるシロアリを退治しない増税」に反対することをマニフェストに掲げ政権の座に着いた。しかも、4年間は増税の論議すらしないと明言して政権を奪取した。しかし、シロアリ=「国家予算に寄生する天下り組織・官僚」は一匹たりとも退治されていないのだから、増税する根拠を失っている。さらに、このデフレ=経済不況の中での増税、しかも、震災被災地の住民をも課税対象とする増税によって一体経済が好転するのであろうか? 否、国民の消費マインドの停滞と実際の消費の手控えによっていっそうの不況が進行するであろう。
 増税を推進する政府・財務省は、マニフェスト違反を合理化するために、日本はギリシャ同様破綻の危機にあるから財政再建は「待ったなし」だと強弁するが、外国への負債がほとんどない日本と外国から借金しているギリシャでは全く事情は異なる。もし「待ったなし」を言うのであれば、それは「シロアリ」を完全に退治することであろう。財務省に関心があるのは、国民の福祉ではなく、シロアリをノウノウと生かし続けることだ。まさに、財政再建の障害物でしかない。

 大人は子供に嘘をついてはいけないと言う。その通りである。政治の世界での嘘は例外ではない。マスメディアが、マニフェストを守ろうとするのを「原理主義」と呼んで、「嘘」を奨励する。マスメディアが原理を投げ捨てたときに残るのは一体何だ!
 増税が必要ならば、そのためのマニフェストを新たに掲げ、国民の信を問う、すなわち、増税を決定する前に衆院を解散すべきだ。しかし、国民の8割は増税を望んでいない。ならば、政権党は増税を撤回し、任期中はマニフェストの実現を、「待ったなし」で進めるべきであろう。しかし、今の流れは、嘘つきがマスメディアも総動員して、正直者に馬鹿を見せつけることになりそうだ。

 セ・パ交流戦は終わりに近づいたが、優勝はジャイアンツとロッテに絞られた感がある。我がファイターズにも目はあるが、斎藤を擁しての昨日のジャイアンツ戦の敗北が痛かった。自力優勝はないが、残りすべてに勝利して、「奇跡」の逆転優勝といきたい。奇跡は起こすものだ!

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